以下はWWDジャパンのweb版のwwdjapan.comに私が書いた山本寛斎追悼文です。
山本寛斎は7月21日に急性骨髄性白血病で76歳の生涯を閉じた。
山本寛斎の死を前にして感じるのは、ファッション・デザイナーという存在の脆さである。
山本寛斎のファッション・デザイナーとしての才能が傑出しているのは述べるまでもないのだが、それが生涯にわたって十全に発揮されたかということになると疑わしい。
ただし知名度ということになるとこれもまたファッション・デザイナーの中では突出した存在だったわけで、このあたりに山本寛斎という複雑な存在を読み解く鍵がある。
実はその「人間 山本寛斎」のことを知りたいと思い、今年1月にファッション週刊紙WWDジャパンで私が連載している「ファッション業界人物列伝」への登場を依頼した。
すると、6月に六本木ヒルズでビッグイベントがあるから、それに合わせた連載にしてほしいとの返信が山本寛斎事務所からあり、さらにギャラの問い合わせもあった。
ずいぶん「シツケ」がいいものだなぁと感心したのを覚えている。
もう山本寛斎はイベントプロデューサーとしてタレント(太田プロダクションと業務提携)の道を歩んでいるのだった。
思えば、1980年代半ばにやまもと寛斎社が経営破綻してからはイバラの道を歩んでいた。
ファッション・デザイナーとしてのピークは、日本ファッションのパイオニアとして、71年にロンドン・コレクションに登場し、その後74年にパリコレクション、79年にニューヨークコレクションに参加して、世界主要都市に「ブティック寛斎」を出店したいたあたりだろう。
自社経営破綻後は「鉄丸」という芸名で、イベントプロデューサーの仕事がメインになってしまった。
「鉄丸」という名前を使ったのは、ファッション・デザイナーとしての自負がまだあったからなのだろうが、いつの間にか「鉄丸」という芸名も消えて、イベントプロデューサー山本寛斎が前面に出て、「元気」や「気合い」を前面に出すようになっていった。
新型コロナウイルスが跳梁跋扈する今の時代に、沈滞する日本を元気にする男として活躍の機会はきっと増えていただろうに、実に残念な死だったと思わずにはいられない。
なおwikipediaの山本寛斎の項目には、最終学歴が日本大学文理学部英文科中退になっているが、これは日本大学理工学部土木工学科中退の誤りである。
最初にロンドン・コレクションに参加してデヴィッド・ボウイの舞台衣装で有名になったから日大英文科中退が通説になってしまったのだろう。
1980年代半ばにWWDジャパンに山本寛斎関連の記事を書いたときに、山本寛斎本人から、訂正の電話があって、それを受けたのが、私だった。
岐阜県にあった実家が土木工事関係の仕事をしていて、県立岐阜工業高校を卒業後、それを継ぐつもりで上京したのだが、土木工学科進学はどうも上京するための口実だったようだ。
(2020.8.14「岸波通信」配信 by
三浦彰 &葉羽)
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