岸波通信その64「会津の三泣き」

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岸波通信その64
「会津の三泣き」

1 会津の頑固

2 会津の三泣き

3 早春賦

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  "San-naki" in Aizu 【2016.10.2改稿】(当初配信:2003.5.4)

「塩っぱいな」と店主に言った。
「食べるな」の一言が返ってきた。
 …それを機に、私は「喜多方ラーメン」の虜になってしまった。
  ・・・『会津の三泣き』文集より

 こんにちは。会津を“第二のふるさと”と考えている葉羽です。

 日本の中でも東北地方、特に福島県というところは、どちらかと言えば「とっつきにくい」県民性と言われていますので、外の土地からいらっしゃった人は、なかなか地域に馴染めなくて悩んでいる方もいるのではないでしょうか?

 とりわけ、雪深い会津の地を始めて訪れた方は、その想いが強いのではないかと思います。

会津まつり(会津藩公行列)

 ということで、今回の通信は「シカの手紙」に続く会津編の第二弾…僕が会津地方に勤務していた時期の経験をもとに、“会津の義理人情”について書かせていただきます。

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1 会津の頑固

 日本人はもともと“shy”だと言われていますが、自分の意見を主張しないことを美徳だと考えていることもあり、どちらかと言えば、何を考えているか分りづらい民族性なのかも知れません。

 そして、福島県の中でもとりわけ会津人というのは、昔から「ヨソ者に冷たい」という印象が強いのだそうです。…頑固だとも言われます。

会津藩公行列

会津まつり

 でも、こうした言われ方をするのは、会津の悲しい歴史(本当は「福島県」自体もそうなのですが)が無関係ではないと思います。

 福島県内の「通信」読者には、「いまさら」という事実ですが、日本が長い封建制度の歴史から近代国家に生まれ変わった今から約130年ほど前の“明治維新”の頃、会津は薩摩・長州連合によって倒される江戸幕府に最後まで忠誠を誓い、幕府自体が倒された後でも、“主君”であった徳川家の名誉を守るために、命をかけて武士道を全うしたのです。

 明治天皇を奉じた「新政府軍」が中山峠を越えて、会津に攻め寄った時も、会津藩では、四天王になぞらえた玄武・朱雀・青龍・白虎の4軍を編成し、玉砕覚悟で全力で抵抗しました。

(年齢別に編成。白虎隊は最年少で、16~17才の少年の軍隊です。)

会津藩公行列

 しかし、時の勢いには逆らえず、最終的に会津軍は新政府軍に攻め滅ぼされ、少年隊である白虎隊は、落ち延びる途中の飯盛山で鶴ケ城の炎上を見、自ら命を絶ったのです。

(実際には、市街地が燃え上がる炎でした。城は、その後一ヶ月間、持ち応えます。なお、野口英世博士の生母シカは、政府軍に身体を張って立ちはだかり、故郷猪苗代の民衆の虐殺を止めたと言われます。通信その39「シカの手紙」参照。)

 鶴ケ城落城後、新政府軍の会津藩士に対する弾圧は苛烈を極め、主だった家臣とその家族を強制的に青森県や北海道の荒地に着の身着のまま移住させ、その過酷な移住によって多くの命が失われていきました。

会津藩公行列

会津藩公行列

 だから会津人は、その記憶を今も伝承し、現在でさえ、「長州(現在の山口県)」の出身者には決して娘を「嫁にやらない」と、自由恋愛さえも否定する風土なのです。

(他方の政府軍「薩摩」はその後、リーダー格の西郷隆盛が新政府内の権力争いから「西南戦争」を起こして滅ぼされたので、会津人も長州ほどには憎しみを抱く人は少ないようです。)

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2 会津の三泣き

 榎本武揚など、ほかの旧幕府方が次々に許されて新政府に登用されてからも、会津藩出身者は決して許されることがありませんでした。

 自らの「やり過ぎた行為」に、新政府自身が怯えたのでしょうか?

 長い抑圧の歴史の中で、会津人は、よそ者を容易には信じられない気質が作られていったのかも知れません。

 でもそれは、決して会津人が「義理人情に欠ける」のではなくて、溢れるほどの義理人情を内に秘めているからこその振る舞いだと思います。

只見川の川霧

 戦後、間もない時期でした。ある新聞社の記者が会津で生活をし、数年後、会津を去らねばならない日が来た時に書き残した記事が今も会津人の語り草になっています。

 彼は、雪深い会津に転勤が決まった時、心の中で「何であんな辺鄙な土地に」と泣いたそうです。

(当時、勿論、高速道路なども無かったですし…。)

 そして、会津に赴任してみると、最初は打ち解けてくれなかった会津の人達でしたが、次第にその優しさや人情に触れ、今度はうれしくて泣いたのです。

 やがて、数年を会津の土地で暮らし、再び会津からの転勤が決まった日、この地を去りがたくて、今度は男泣きに泣いたそうです。

秋の長床(喜多方市)

 僕達はこの話を知り、誤解されがちな会津人の人情の深さを世に知ってもらおうと、「会津の三泣き」をテーマに全国から体験談を募集し、文集をまとめることにしました。

 そして、この募集に応えて全国から60編を超える珠玉の体験談が集まり、会津の盟友田中さんたちが一冊一冊、和紙を手漉きした装填をほどこし、『会津の人情話文集“会津の三泣き”』という手作り文集を発行することになりました。

 以下は、その文集からの抜粋です。

 「これもってげ」…歩いていると必ずこの言葉をかけられる。

 妙に親しげな会津人。いつのまにか両手いっぱいのじゃがいもを持たせられていた。

 これから歩いて帰るのにちょっと重いな。ちょっと強引な会津人。

 そんな突然の出来事がどんどん日常生活の中に溶け込んでくる。

 今度遊びにいくときは、このじゃがいもでコロッケを作って一緒に食べよう。そして、何度も聴かせられる娘や孫達の話を聞いてあげよう。

 いつの間にかワナにかかってしまったような気がしてならない。会津に来て三年。

 そんなワナもなかなかいいかもしれない。

 そうなんです。僕が会津に暮らしたのは二回目。…最初は、まだ新採用の時、後にラーメンで有名になる喜多方に赴任したときも同じ経験をしました。

 人情のワナ…はまってしまいます。

 心に重い「トラウマ」を抱えたまま、仕方なく口を閉ざす…ってこと、ありましたねぇ。

 春、残雪に驚き、会話に戸惑い、穏やかな春の陽気と雪融けに和む。

 夏の強い陽射しと蒸し暑さに汗ばみ、さわやかな夜に似合う夏祭りに酔う。

 秋の重い雲と近い冬の到来に心沈み、鮮やかな紅葉と自然の幸に心躍る。

 冬の厳しい寒さと雪にじっと耐え、春のたよりを待つやさしい笑顔に感動。

 やはり、会津はいい。ただ今、四十二である。

 既に、僕自身もこの筆者の年齢を超える年になりました。

 昔、義理の妹M子がまだ生きていた頃、彼女が車椅子から初めて見る外界の…会津の大きな自然の優しい風景に目を輝かせていたのが思い出されます。

 道なき雪を踏み、涙ながらに山の学校に赴任で「一泣き」

 会津人の朴訥で心あたたかい深い情感といたわり、優しさ、人間味に触れて「二泣き」

 村人が、子供達が、行くな、まだおってくれと握って離さなかった手。

 泣きに泣いた別れの日、「三泣き」…

 幾多の季節は巡りましが、そんな感動に包まれながら会津の地を去っていく新米の先生たち…きっと今もたくさんいることでしょう。

 次女孫の雛祭りに会津の里に招かれた。「近所の皆さんから村一番の良い嫁さんを貰ったねともてはやされ嬉しいですと…」一緒に暮らせば欠点ばかりが目に付くのに、実直で飾り気のない言葉が胸に響く。

 東山温泉に一泊招待され、帰途、野口英世博士の生家と記念館を訪れる。

 野口博士が座右の銘とした「忍耐」の文字が庭先の記念碑に刻まれてある。

 愛した娘よ、一人娘の幸子よ。会津の生んだ世界の野口博士のあの言葉を忘れるな!

 父もこの二文字に、あの戦争三年とシベリヤ抑留五年の歳月を極寒の中に耐え忍んで来た。

 あんたには、いたわりあう優しい家族がある。会津人の血を受け継ぐ素晴らしい会津の人となれ。

 娘よ、女は幸せを造るのが命だ。その名あんたは幸子よ。

 いついつまでも夫婦仲睦まじくと、幸せ一杯の彼方、会津の空を見る。

 嫁いだ娘を思いやる父親の気持ち…思わず胸が熱くなります。

 とにかく会津へ来たからには、まず「喜多方ラーメン」と意気込み、注文した。

 出て来た「喜多方ラーメン」は塩っぱい味がした。

 「塩っぱいな」と店主に言った。

 「食べるな」の一言が返ってきた。

 …それを機に、私は「喜多方ラーメン」の虜になってしまった。

 あっはっは。出ましたね、喜多方ラーメン!

 みんなそうやって虜になってしまうんですねぇ…。

 「この街は、よそ者には住みにくい土地だよ。仕事を覚える前に土地に溶け込むことだよ。」…前任者が忠告してくれた。

 仲良くなれたと思った現地採用者との間にも何となく壁を感じ続けた三年間であった。

 しかし、送別会の席上、意外な事に、壁を感じていた現地採用者の全員が涙を流して別れを惜しんでくれた。

 最後に合唱した「知床旅情」の歌は、今でも心に残っている。

 不思議な土地柄であったと、今でも良く判らないところがある。

 会津の人情は…懐が深いのです。

会津若松市周遊バス「ハイカラさん」


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3 早春賦

 会津若松市の市民劇団が「早春賦」という劇を創作しました。

 会津出身の娘が、それと知らずに長州出身の若者と恋に落ち、実家の両親から大反対されて、二人の仲を引き裂かれる物語です…。

 泣き続ける娘を不憫とは想いながらも、父は「会津の掟」を守らせるべく、長州の若者の母親のところに「直談判」に乗り込みました。

 しかし…

 娘の父と相手の男性の母は、出会った瞬間に驚いて立ちすくんでしまいます…。

 二人はかつて、同じように「会津の掟」によって、両親に引き裂かれた恋人同士だったのです。

紅葉の只見川

 かくして若い二人は、歴史の恩讐を乗り越えて結婚が認められることになりました。

 この創作劇を携え、劇団と会津若松市民有志は、長州(山口県萩市)と「和解」に向けた交流を始めました。

 乗り越えられない心の壁などない…。

 歴史の傷が癒される日を待ち望みます。

 

/// end of the“その64 「会津の三泣き」” ///

 

《追伸》

 「三泣き文集」にお寄せいただいた作品は、それぞれに“会津への想い”が溢れていて、どれも素晴らしいものばかりでした。

 昭和村からは、綴り紐にと名産の「カラムシ」原麻を提供いただいたり、柳津町の和紙作り研究会さんは、素人相手に懇切丁寧に指導をしてくださったり、切り絵工房中藤さんからはイラスト用の原画を提供いただいたりと、たくさんのご好意に支えられて、僕達の小さな試みは何とか成功させていただきました。

 本当にありがとうございました。「会津の三泣き」が、「会津が恋しくてまた行ってみたい」と“四泣き”になるよう祈っています。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

雪の鶴ヶ城

雪の鶴ヶ城

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To be continued⇒“68”coming soon!

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