井伏先生は、兄から言い残されたストーリーを物語にし、その自分で70年前に創作した主人公に、生涯、同情し続けていたのです。
作品は自分の思惑を離れて世間に評価され、もう、自分ではどうしようもない主人公にした仕打ちを後悔し、十字架を背負い続けて来たのです。
「でも、出ることができない山椒魚に、僕たちはいろんなことを教わってきましたよ」…まっさんは、やっと口を開きました。
「あれは…出られないから『山椒魚』なんじゃないでしょうか?」
井伏先生は、救われたように語りはじめます。
「そうかね、あれは、出られないから『山椒魚』なのかね。あれは出られなくていいのかねぇ」
しばらく考え込んでは、また、
「そうかね、あれは、出られなくていいのかねぇ。そうかね、出られなくてもいいのかね…」
まっさんの言葉に先生が救われたのかどうかは分りません。
でも、その対談が終わった後、井伏先生が、とっておきのロイヤル・サルートを持ち出し、まっさんが先生の身体を気遣って遠慮すると…
「こういう日は飲まなきゃだめだ」と、さらに、まっさんにお酒を勧め、その日は二人で痛飲したそうです。