一方、昨今言われる「グローバリズム」というものは、“アメリカ的な価値観を世界に押し付ける考え方”だと批判する論者もいます。
確かに、「契約文化」を持つアメリカでは、物事の白黒をはっきり割り切る考え方が当たり前ですが、例えば日本では、対立する価値観のバランスを取ることで歴史を発展させて来たのではないでしょうか?
おそらくこれは、日本の宗教が多神教、八百万(やおよろず)の神々を信仰してきたことと無縁ではないでしょう。
また、国際医療支援NGOメドゥサン・デュ・モンドが「アフガニスタンの女性のヴェールを上げる」という写真展を開催し、チャドル(女性のヴェール)を人権抑圧の象徴と見なしたキャンペーンを行いましたが、このことに対して、民族文化を否定されたと感じたイスラム諸国から強い反発を招いたことは記憶に新しい出来事です。
加えて、グローバリズムを標榜するアメリカ自身が、地球環境問題というグローバルな課題を巡って、自国の国益優先という立場をとり、京都議定書に署名しなかったことに対して、二枚舌と感じたのは、きっと僕ばかりではないでしょう。
我々は、グローバリズムというものは、決して“特定の国の価値観を世界化する”ことではないということを、改めて肝に命じる必要があるでしょう。