岸波通信その39「シカの手紙」

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岸波通信その39「シカの手紙」

1 野口英世博士の生涯

2 シカの手紙

3 高碕達之助氏の感慨

4 シカとの再会、博士の死

5 理想の国語教科書

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  A letter from mother (2016.7.15改稿)当初配信:2002.12.24

「小学校の頃だったでしょうか、野口記念館に家族で行ったことを思い出しました。手紙を読んで母が泣いていたのを思い出しました。」
  ・・・読者レスより

  こんにちは。会津人の魂を郷土の誇りと考えている葉羽です。

 2002年12月16日に「猪苗代町絆(きずな)づくり」実行委員会が募集していた「母から子への手紙コンテスト」の最終選考が行われて、横浜市の伊藤百合子さん(73)の作品が大賞に選ばれました。

 海外七か国からも応募があった全3053点の中で、大賞を獲得した伊藤さんの手紙は、小児マヒを乗り越えて成人し、「ヨメさん、見つかったよ」と知らせてきた息子さんの手紙への返信。

 夫の仏前に吉報を伝え、息子の歩みを温かく振り返るもので「お前は一度も父さん、母さんを責めたり、愚痴をこぼしたりしなかった」と言って、息子が見つけた人に一日も早く会いたいと呼びかけるものでした。

野口博士を殺した蚊

(野口記念館収蔵)

←こんなものもある。

 このコンテストは、2004年度発行の新1000円札に描かれることになった野口英世博士にちなんで行われたもので、勿論、医学者となって渡米した野口博士に送った母シカの有名な手紙をモチーフとしています。

 また、このコンクールの優秀作品は、福島民報新聞紙上でもシリーズで紹介されていましたので、ご承知の方も多いかと思います。

 それでは、皆さんは、そのモチーフとなった野口博士の母シカの手紙を実際にご覧になっているでしょうか?

 福島県の方なら、一度は猪苗代町の野口記念館を訪れていらっしゃるかと思いますが、他県の方ならいかがでしょう?

 もしもまだの方がいらしゃるなら、手紙の内容を紹介したこの通信の「2」の部分は読まずに、最初から貴方の眼で実物を見てほしいと思います。一切の先入観は必要ありません。

 その時、貴方の胸に何が去来するか? 遠い異国の地でそれを目にした野口博士の想いを貴方にも分かち合って欲しいのです・・・。

 

1 野口英世博士の生涯

 野口清作(英世の幼名)は、1876年に福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれ、1歳半の時、母親のシカの不注意で炉に転げ落ち、左手が焼け爛れてしまって、医者にも見てもらえないまま、鍬も持てない手になってしまいました。

 清作の父親は大酒飲みで家も貧乏でしたが、シカは百姓になれない清作を学問で身を立たせるために一生懸命働きました。

 この時、シカは近所の人々が収穫したものや工芸品など重い荷物を預かって背負い、会津若松市内まで届けると、その帰りには人々に頼まれた買い物をし、それをまた猪苗代町まで歩いて運んで来て収入を得ていました。

 その距離、片道30キロメートル! しかも重い荷を背負って…。

(シカは、清作が成長して医学研究のために米国へ旅立ってからも、毎年一度は、息子の健康を気遣って、さらに遠い「中田観音様」まで夜籠りに行っていました。)

 こうした母シカの献身的な愛情と、猪苗代高等小学校の先生だった小林栄(さかえ)先生の私財を投げ打ってまでの援助を受けて、清作は何とか猪苗代高等小学校へ入学することができました。

 でも、清作は学校で、動かない左手を理由にイジメに遭います。

野口シカ

 やがて清作は、現在の会津若松市内にある会陽医院で左手の手術を受けることになりました。そこで彼は医学の素晴らしさを知り、高等小学校卒業後に、会陽医院の渡部先生に弟子入りするのです。

 清作は熱心に勉学に励み、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」 という言葉を口ぐせとし、事実、その言葉通りに実行したそうです。

 19歳の時に医師免許を取得するために上京した時には、「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」という有名な言葉を残しました。

 そして、東京に出た清作は、会津若松の会陽医院から紹介を受けた高山歯学医院の血脇守之助先生の元で医学を学び、わずか20歳の若さで医師免許を取得しました。

 その後、清作は、当時医学会で世界的に有名であった北里柴三朗が所長を務める伝染病研究所の助手となり、そこに訪れたシモン・フレキスナー博士と知合ったり、横浜の海港検疫所に派遣中、ペスト菌を発見するなどの功績を上げます。

 そして1904年、フレキスナー博士がニューヨークのロックフェラー研究所長になると、野口英世と改名した清作は「一等助手」として迎えられました。

 この研究所で英世は、蛇毒や梅毒、黄熱病の研究に没頭しますが、その熱中ぶりは猛烈で、同僚から「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われていたそうです。

 そうした努力が実り、梅毒のスピロヘータの研究で名を為して、ヨーロッパ各地から講演に招かれるようになります。また、この時期には、研究所で知り合ったメアリー夫人と結婚もしました。

ちょうど、その頃でした。

 渡米後12年。世界の野口として認められ始めた息子に、会津の母シカから一通の手紙が届くのです。

 

2 シカの手紙

 以下に、シカの手紙を掲げます。

(シカは学問も無く、字が書けませんでした。しかし、息子に一目会いたさに、囲炉裏の灰に指で字を書く練習をしながら、この手紙が書かれたのです。「財団法人野口記念会」が付した最低限の注釈のみ付けます。)

 おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(驚き)ました。
 わたくしもよろこんでをりまする。

 なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。 
 よこもり(夜籠り)を。いたしました。

 べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
 いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。
 おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。

 はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。
 わたしも。こころぼそくありまする。
 ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。

 かねを。もろた。こトたれにもきかせません。
 それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。

 はやくきてくたされ。

 はやくきてくたされ

 はやくきてくたされ。

 はやくきてくたされ。

 いしよの(一生の)たのみて。ありまする

 にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。
 ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。

 きた(北)さむいてわおかみおります。
 みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。

 ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。
 ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわ
 おかんてもろておりまする。

 なにおわすれても。これわすれません。

 さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。(神様に捧げるように頂く)

 はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
 これのへんちち(返事を)まちてをりまする。

 ねてもねむられません


 宛名は博士が予め送っていた英文のゴム印が押されていましたが、今は消え失せて読むことはできません。

 幼い清作に一生消えないやけどを負わせたことで、生涯自分を責めながら息子の無事だけを思って生きた母シカ…。

 長年会えない息子に向けて書かれた、たどたどしいその文字から、息子の身を案じる気持ちが痛いほど伝わります。

シカの手紙(原本)

(C)野口記念館


 

3 高碕達之助氏の感慨

 シカの手紙が、現在このようにして残され、世に広く知られることになったのは、昭和28年、通産大臣として活躍された故高碕達之助氏が当地を訪れた際、この手紙に感動されて、次のような話をされたことによるそうです。

 極めて稚拙な筆で精一杯努力して書かれたこのたどたどしい手紙には、
 天衣無縫の母の愛が一字一字に、にじみ出ていて、照合しつつ読んでいくうちに、
 私はとめどもなく涙が出て困りました。

 極貧の農家に生まれて、幼いうちに両親に別れ、
 信心深い祖母の手一つで育てられたシカ女、

 七歳で他家に雇われ、終日子守や野良仕事に追い廻され、
 人が寝静まってから月明かりに指で木灰にいろはを書き習ったと云われる彼女、

 想像も及ばぬ辛苦を重ねつつも、
 ひたすら観音の教えを信じて逆境に耐え抜いたこの母が、

 博士の成功を祝し、その身を案ずる真心で書き綴ったこの手紙は
 正に鬼神をも泣かしめる天下の名文と云えましょう。

 時恰(あたか)も初秋、湖畔に佇んでこの文を読み、
 子を思う母の至愛に切々として胸を打たれた次第でありました。

 国破れて以来、人心荒廃、ややもすれば、忍苦の底に光るこの無限の愛の貴さが
 忘却されようとする今日この頃、
 図らずもこの偉大な心の資源に触れて近来になく心強く感じました。

高碕達之助

 この高碕達之助の言葉もまた、胸を打つ名文ではないでしょうか?

野口博士ゆかりの地

(旧会陽医院周辺)

←山内ヨネは初恋の女性。


 

4 シカとの再会、博士の死

 恥を忍んで告白いたしますと、僕は、福島県に生まれ育ち、勤務の関係で会津に10年近くも住みながら、野口記念館のシカの手紙にじかに触れたことはありませんでした。

 しかし、初めてその手紙を目にした時の衝撃を忘れることはできません。

 最初は、字が読めず「あれ?」と思って読み進むうち、「はやくきてくたされ」が繰り返されるところで、涙が溢れてどうしようもありませんでした。

 安達太良山の麓にある詩人高村光太郎の妻智恵子を偲んで建てられた「智恵子記念館」で、病院で狂いゆく智恵子が、夫から届けられた菓子の包装紙や飲んだ薬の薬包紙で作った折り紙と貼り絵を見て、その美しさと優しい色合いに感動で泣いた時以来のことでした。

 野口博士は、母シカの手紙を受け取って間もなく、1915年に一時帰国をし、万感の想いで待っていた母シカとの再会を果たしました。

 その後、1918年から黄熱病の研究のためにエクアドルやペルーなどを回り、黄熱病の薬を作り出しましたが、この薬ではアフリカの黄熱病は治らないという連絡を受けると、今度は1927年からアフリカのガーナに出張します。

 しかし、滞在中に自身が黄熱病に罹り、翌年、ガーナで51歳の偉大な生涯を閉じることになります。

 ガーナでは、その献身的な治療活動から今でも医聖野口と尊敬を集めており、2002年に来福したクフォー大統領をはじめ、博士の功績を偲んで猪苗代町の生家を訪れる人が、今でも後を絶ちません。

 ところで、会津人が今も忘れることのできない「戊辰戦争」。この戊辰戦争にまつわるシカのエピソードはご存知でしょうか?

 西軍が会津に攻め入った時、通り道にある家々は、ことごとく西軍によって焼き払われました。

(会津では、官軍と呼ばず西軍と呼んでいました。)

 この時、わずか14歳であったシカは、自分の身を挺し、西軍の隊長に「自分が住んでいる三城潟には侍はいないので焼かないで欲しい」と直訴し、三城潟は焼き討ちの難を逃れたということです。

 医学によって大勢の人の命を救った野口博士の母シカもまた、多くの人命を救っていたのです。

野口博士の生家


 

5 理想の国語教科書

 ところで皆さん、「理想の国語教科書」という本をご存知でしょうか?

 明治大学助教授の齋藤孝さんが書いた本で、齋藤先生は「声に出して読みたい日本語」や「スラムダンクを読み返せ!!」などのベストセラーで知られます。

 この本では、小学生向けの理想の国語教科書として推薦したい古今東西の「すごみ」のある文章の名著が紹介されています。

 以下にそのリストを示します。

  「理想の国語教科書」 齋藤孝

【一学期】
夏目漱石『夢十夜』第一夜
シェイクスピア『マクベス』第一幕第七場
小林秀雄『人形』
蒲松齢『聊斎志異』蛇人
坂口安吾『風と光と二十の私と』
ラブレー『ガルガンチュワ物語』ガルガンチュワの幼年時代
菊池寛『勝負事』
トルストイ『人にはどれだけの土地がいるか』
中島敦『名人伝』
ブルフィンチ『ギリシャ・ローマ神話』ミダス王
太宰治『走れメロス』

【二学期】
宮沢賢治『学者アラムハラドの見た着物』
モーツァルトの手紙(小林秀雄『モオツァルト』
幸田文『なた』
ヘレン・ケラー『わたしの生涯』サリバン先生
新美南吉『疣』
藤原てい『流れる星は生きている』白い十字架
ネルー『父が子に語る世界歴史1』誕生日を祝う手紙
志賀直哉『清兵衛と瓢箪』
棟方志功『板極道』幼少年時代
『ゴッホの手紙』(弟テオ宛)
ラッセル『幸福論』退屈と興奮

【三学期】
森鴎外『杯』
ガルシア・マルケス『百年の孤独』
福沢諭吉『福翁自伝』塾生の勉強
宮本常一『家郷の訓』父親の躾
野口英世母・シカの手紙
ロマン・ロラン『ベートーヴェンの生涯』
『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』科学論
パスカル『パンセ』
ゲーテ『ファウスト』悲劇 第一部 書斎

 ここでも『シカの手紙』が取り上げられています。また、通信その13「海外コロニアと日本伝統文化について」(前編)で紹介しましたガルシア・マルケスのノーベル文学賞受賞スーパーSF『百年の孤独』のタイトルも見えます。

 普通なら、小学生向きということで、漱石や宮沢賢治などを取り上げる時でも、もっとポピュラーなものが選ばれるのでしょうが、齋藤先生は「すごみのある文章」という観点に立って、あえてこういった本を提案してくる・・・こういうところ、素敵だなと思いませんか?

 そして齋藤先生は、この「理想の国語教科書」に関する柳田邦男氏との対談の中で、次のように述べています。

  柳田邦男氏との対談 齋藤孝

 ロマン・ロランの作品には、「いかに生きるか」というテーマが流れています。

 今は、そういった正義感とか、真っ直ぐ生きる熱さとかいうものが、小学校時代にパーンと入っていないんです。

 最初から茶化しちゃっているわけだから。

 出会う前に、世の中を知りもしないくせにふざけんじゃない、と言いたくなりますよね。

 だから、そういう有無を言わせないというか、茶化すこともできないような作品をぶつけたかったんですよね。

 ものごとに正面からぶつかってゆく真っ直ぐの良さ、それはやっぱり子どもにも分かる。

 本物が持つ力というんでしょうかね。

 棟方志功(「板極道」)とか、野口シカ(「野口英世の母・シカの手紙」)なんて、いくら斜に構えている子どもでもバカにできないと思うんです。

 シカなんて、子を思う気持ちもあそこまでいっていると、もう何も言えない…。

 変に大人びたフリをし、人生を斜めに見始まっている今の子供たちには、真剣に生きている大人たちの生き様を正面から見せてやる必要があるのではないかと思います。

 ぎりぎりの状況の中で人が表現する感情、苦悩、絶望、そして愛情・・・。

 そういった人間の魂から発せられる言葉・・・大切な「生きる力」になって行くのではないでしょうか?

 小中学生のお子さんをお持ちの皆さん、野口記念館にお子さんと一緒に足を運ばれてはいかがですか。

 

/// end of the “その39 「シカの手紙」” ///

 

《追伸》2003.7.31

 野口博士が左手を手術した会津若松市の会陽医院は、今は野口英世青春館という名前の資料館になっています。また、会陽医院 の前にある通りは「野口英世青春通り」という名で親しまれています。

 博士が会津を旅立つ時の言葉…「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」 は、お子さんが遠くへ旅立たれる経験をされた方には、胸に響くものがあるのではないでしょうか?

 最近、そんなことを言い始めた息子を持つ父は、心が揺れています。

 参考までに、野口博士に関する略年表を掲げます。

  野口英世博士の年表

1876 11月9日福島県猪苗代町三城潟で生まれる。
1878 4月末、いろりに落ちて大火傷を負う。
1883 三つ和小学校入学。
1888 (磐梯山噴火)
1889 三つ和小学校卒業・小林先生の援助のもと猪苗代高等小学校に入学。
1892 友人たちの寄付金により、会津会陽医院の渡部鼎ドクトルに左手の手術を受ける。
1893 猪苗代高等小学校卒業・会津若松にある 会津会陽医院に薬学生として入門。
1896 上京・医術開業前期試験に合格。血脇守之助のいる高山歯科学院の学僕となる。
1897 医術開業後期試験に合格・高山医学院講師となり、その後順天堂医院に勤務。
1898 北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務。英世と改名。
1899 フレキスナー博士の来日中、案内役をする。横浜の開港検疫所医官を命じられ、ペスト患者を発見。
1904 ニューヨークのロックフェラー研究所の一等助手となる。
1911 日本より医学博士の学位を授けられる。梅毒スペロヘータの純粋培養に成功。メリーダージスと結婚。
1913 ヨーロッパ各地に講演旅行に行く。
1914 ロックフェラー研究所正員となる。日本より理学博士の学位を授けられる。
1915 一時帰国(シカと再会)
1918 エクアドルのグアヤキルに黄熱病の研究に行く。病原体を9日目に発見。シカ死す。
1919 黄熱病研究のためメキシコに行く。
1920 黄熱病研究のためペルーに行く。
1923 黄熱病研究のためブラジルに行く。
1926 オロヤ熱病原体を発表。
1927 トラホーム病原体を発表。アフリカに行く。
1928 ガーナのアクラで黄熱病の研究。皮肉にも博士自身が黄熱病にかかり逝去。(51歳)

 当初配信時に読者からいただいたレスを一編だけご紹介します。

タカさん

 岸波通信39ありがとうございました。

 小学校の頃だったでしょうか、野口記念館に家族で行ったことを思い出しました。手紙を読んで母が泣いていたのを思い出しました。

 母は山梨県出身で、距離的にも環境的にも、なかなか家に帰れなかったので、自分への手紙のように感じたのかもしれません。その時からなんとなく覚えていただけでしたが、自分が親になって読むと感じるものがあります。

  親から大事なものを貰っていたんだという事が今わかりました。ありがとうございました。

 会津人、野口博士の姿が描かれる新千円紙幣…今から楽しみです。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

野口博士ゆかりの壱番館

(会津若松市)

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