岸波通信その204「バンドで頑張っていた頃」

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Present by 葉羽
「SUMMER IN THE ISLAND」 by Music Material
 

岸波通信その204
「バンドで頑張っていた頃」

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◆新シリーズ「人生を振り返って」#03 バンドで頑張っていた頃

 中学校の時にクラシックギターを覚え、そのうちPPM(ピーター、ポール&マリー)のフォークソングを歌うようになり、やがてバンドを組んで作詞作曲までやるようになった。

ピーター、ポール&マリー

(PPM)

 やがて高校に入ると、無謀にも当時実施されていた「ライトミュージック・コンテスト」に出場しPPMの『Bamboo』を熱唱。

 ところが僕が2番を飛ばしてショートカットしてしまったものだから、やけに短い曲となり敗退。

 一緒に出たキヨタカやムラジュン、テツロ―から散々の非難を浴びることに。(まあ、まともに歌っても合格しなかったろうが)

 

 その時、同級生の二人(渡辺マコト・高橋マコト)も僕が作詞作曲した『悲しみ』で出場。かなり良い出来だと思ったが、やはり敗退。

 で、この高橋マコト君だが、一浪して同級生になり僕と同じクラスに。

 メガネに長髪という彼は、よく生活指導の教諭に髪を切れと迫られたが断固拒否。そんなコワモテの彼は、上級生に誘われて応援団の切り込み隊長になった。

  ※イメージです。

 放課後に一年生が集められ応援歌の練習となった時、当時、(生まれつきの)難聴が進んでいた僕は、よく聞き取れなくて歌えなかった。

 するとマコトは上級生の手前、烈火のごとく怒ったフリをして僕に詰め寄った。

 しかし、小声で自分は難聴だと伝えると表情からコワモテが一気に引き、申し訳なさそうな顔になって上級生にかけ合ってくれた・・心根が優しい男なのである。

福島市吾妻通り

(かつて開拓開館があった路地)

 高校時代、駅前の開拓会館で素人バンドメンバーが集まって何度もコンサートを開催したものだが、その後もバンドを続けたのは彼一人だった。

 そう・・彼は後に氷室京介らと「BOØWY」を結成し一世を風靡する高橋マコトその人なのだ。

  BOØWY(右端がマコト)

 布袋君も居る・・ね、凄いでしょ?

 ちなみに、僕らが敗退した「ライトミュージック・コンテスト」で優勝し全国デビューを果たしたのは、後の僕の大学先輩、小田和正率いる「オフコース」だった。

  小田和正

 ・・負けるのは当然である。

 

/// end of the “その204「バンドで頑張っていた頃」” ///

 

《追伸》

 当時の4人のうち、ベースを弾いていたテツロ―だけが音楽の道に進み、中央有名楽団(N響?)の楽団員に。

 高音部担当のムラジュン本人はサラリーマンになったけれど、その娘さんはプロのシンガーソングライター(結構有名)に。

 4人だったメンバー編成はたびたび変わり、清ちゃんという桜の聖母高校の女性ボーカリストが入ったりしたが、その後の彼女はどうなったことか。

 そして、僕とデュエットを組んだオチバは、その後、開拓会館で一緒に出場していた別グループのメンバーと結婚。しいて言えば、この僕が”キューピッド”だったのでしょうか(笑)

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

福島高校

(高校時代の母校)

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To be continued⇒“205”coming soon!

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【岸波通信その204「バンドで頑張っていた頃」】2024.3.31配信

 

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