羽黒神社の縁起には、29代欽明天皇の後継者争いに敗れた第一皇太子淳中太尊(ヌナカフトノミコト)と石姫皇后が信夫山まで逃れ、皇太子が羽黒大権現として羽黒神社に祀られ、皇后が黒沼大明神として黒沼神社に祀られたとある。(政争に勝利した第二皇太子は第30代敏達天皇に即位。)
信夫山麓の黒沼黒神
これは伝説であり正確な開基年は不明だが、1064年に登拝路の七曲坂が開かれた時に両神社は既に存在していた。
以後、何度も戦火に焼かれるが、1702年に板倉藩政が開始されると、1774年に小関裕而の先祖である小関三郎次が秡川橋や石造眼鏡橋を寄進、1848年に羽黒神社が再建された。
羽黒神社本殿
この時に羽黒神社の大彫刻を施したのが国見町沼田神社本殿の彫刻も行っていた初代長谷川雲橋とその子雲谷で、雲谷はその後二代目雲橋を襲名する。
福島県の歯科医師の資格制度が開始されたのは1885年であり、(二代目)長谷川雲橋が福島県第1号歯科医師となった時は、かなりの高齢であったはずだ。
羽黒神社から北方を臨む
しのぶ山 しのびて通う道もがな 人の心の奥もみるべく 「伊勢物語」(業平朝臣) |