岸波通信その200「黎明期の群像/余話~5」

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岸波通信その200
「黎明期の群像/余話~5」

1 明治天皇も注目した須賀川病院建設

2 阿蘭陀通詞だった劉国任

3 日本最初の銅版画

※写真は「福島県公立須賀川病院」↑

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  The History of modern medicine in Fukushima 2023.5.9配信

「八代長貴がどういう経緯で国任を召し抱えたのか定かではないが、二本松藩がいち早く西洋医学教育を開始できた理由の一つがそこにあった事は想像に難くない。」・・・本文より

 今回も『ふくしま近代医学150年 黎明期の群像』に僕が追補したミニ・コラムをご紹介します。

ふくしま近代医学150年
黎明期の群像

(福島民友新聞社刊)

 内容は、明治天皇も注目した須賀川病院建設 、阿蘭陀通詞だった劉国任、そして、日本最初の銅版画(※誌上未掲載)の三本です。

 

1 明治天皇も注目した須賀川病院建設

 明治5年(1872年)2月に白河から移転した須賀川の「福島県病院」だが、同時に新病院の建設が開始され、翌明治6年(1873年)4月に新築落成して「福島県公立須賀川病院」と改称された。

福島県公立須賀川病院(明治6年落成)

 この整備費用は須賀川村有志230余名からの2,426円の寄付によって賄われ、労働力、庭木、庭石も寄付だった。

  当時の天皇巡幸の様子

 東京以北では有数とされる須賀川病院がこのような形で建設された事には明治天皇も興味を示し、明治9年(1876年)9月、天皇の東北巡幸の際、勅使として右大臣岩倉具視、顧問の木戸孝允らが病院に派遣された。

  右大臣岩倉具視

 岩倉大臣からの病院設備や患者数、生徒の学問等に関する質問に対し、福島県参事山吉盛典と院長塩谷退蔵が答えたと太田貞喜『明治天皇御巡幸誌抄』にある。

 須賀川出身の太田貞喜は『明治天皇御巡幸誌抄』を記録しただけでなく、同じ郷土の偉人、『医範提綱内像銅版図』(日本初の銅版解剖図)を制作した洋画家亜欧堂田善に関する資料も収集していた。

  須賀川の絵師亜欧堂田善

 昭和45年に須賀川市博物館が設立されると、太田貞喜の孫にあたる須賀川市諏訪町の医師太田宏一氏は祖父が収集した田善の銅版画等を寄贈。

 これらは昭和61年、福島県教育委員会が「太田貞喜の亜欧堂田善コレクション」として県重要文化財に指定し、同博物館において展示されている。

 
須賀川市立博物館で開催中された田善没後200年記念企画展「銅版画の世界展」の様子。
(2022年4月撮影)


 

2 阿蘭陀通詞だった劉国任

  福島県で最も早く西洋医学教育をスタートさせたのは二本松藩の小此木天然だが、彼と同時期に遊学しシーボルトに学んだ人物に劉気海がいる。

 劉家は祖父の代から御殿医を務めた名家で小此木家と双璧を為したが、何故、二本松藩に中国人の蘭医が居たのだろうか。

  丹羽家八代長貴

 劉家の初代国任は中国からの帰化人で丹羽家八代長貴に仕えた人物だが、元々は長崎在住の蘭方医で阿蘭陀通詞(オランダ語の通訳)も務めていたと言う。

 

 八代長貴がどういう経緯で国任を召し抱えたのか定かではないが、二本松藩がいち早く西洋医学教育を開始できた理由の一つがそこにあった事は想像に難くない。

 下は、今回の『黎明期の群像』調査で発見された小此木一族の墓所。

 白虎隊の墓で有名な大憐寺の山中に、訪れる者もなく草茫々の中に眠っていた。

  小此木家の墓所(草刈り後)

 劉家の墓所に関しても探したが、今回の調査の中では見つからなかった。

  大憐寺/二本松市

 なお「劉国任は蜀の劉備玄徳の子孫筋」とするネット記事もあったが、典拠もなく単なる伝承と思われる。


 

3 日本最初の銅版画

 日本で初めて銅版による人体解剖図を制作したのは須賀川の亜欧堂田善だが、銅版画自体で日本最初のものは、司馬江漢が天明3年(1783年)に成功した『三囲景図(みめぐりけいず)』と言われて来た。

『三囲景図』

(司馬江漢 作)

 しかし、日本人の手による更に古い銅版画が発見された。

 それが島原有家町のセミナリオで制作された『聖家族』と『セビリアの聖母』だ。

『セビリアの聖母』

(カトリック長崎大司教区 所有)

 1869年(明治2年)にプティジャン神父がマニラで発見し、ローマ法王に献上されたが、「日本にとって大切なものだから」と返却され、大浦天主堂に保管されていた。

  大浦天主堂

 制作年は『聖家族』が1596年、『セビリアの聖母』が1597年と彫られており、セミナリオの画学生が西洋から送られた原画を手本に制作した習作と考えられている。

 現在は、両画とも長崎県指定の有形文化財となっている。

 

/// end of the “その200「黎明期の群像/余話~5」” ///

 

《追伸》

 三番目の「日本最初の銅版画」の話は亜欧堂田善からのスピンアウトの記事でしたが、それ自体は福島の話から離れるということで、別の記事を書いて後から差し替えたものです。

 『黎明期の群像シリーズ』も次回で最終回となります。

 その後はどうするか・・現在検討中です。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

福島県立医科大学の歴史

(英語版及び日本語・増補改訂版)

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【岸波通信その200「黎明期の群像/余話~5」】2023.5.9配信

 

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