岸波通信その199「黎明期の群像/余話~4」

<Prev | Next>
Present by 葉羽
「SUMMER IN THE ISLAND」 by Music Material
 

岸波通信その199
「黎明期の群像/余話~4」

1 黄土水作「高木友枝博士胸像」の行方

2 南洋視察団の船名

3 信達地方の医学の祖、小野隆庵

※写真は黄土水の代表作「甘露水」↑

NAVIGATIONへ

 

  The History of modern medicine in Fukushima 2023.4.25配信

「甘露水の歴史的意義は台湾初の女性の裸体彫像にとどまらない。より大胆に言えば、この作品から当時の台湾人は、文明の発展の度合いにおいて日本を大きく上回っていたと言える。」・・・本文より

 今回も『ふくしま近代医学150年 黎明期の群像』に僕が追補したミニ・コラムをご紹介します。

ふくしま近代医学150年
黎明期の群像

(福島民友新聞社刊)

 内容は黄土水作「高木友枝博士胸像」の行方、南洋視察団の船名、そして、信達地方の医学の祖小野隆庵の三本です。

 

1 黄土水作「高木友枝博士胸像」の行方

 黄土水(こう どすい)は台湾総督府の民政長官内田嘉吉の推薦を受けて東京美術学校の高村光雲門下で学び、台湾を代表する彫刻家となった。

  黄土水 (「黄土水百年誕辰紀念特刊」より)

 その作品の多くは、台湾の白色テロ時代に遺棄されたり行方不明となったが、最晩年に作られた「高木友枝博士胸像」だけは、博士の孫、板寺一太郎氏が保管していた。

高木友枝博士胸像

(黄土水 作)

 2013年に一太郎氏が亡くなると、遺族は胸像を博士の遺品と共に台湾時代の関係者に寄贈することとした。

 これに台湾の公立高校「国立彰化高級中学」(彰化国中)が手を挙げたが、高額の対価を提示する奇美博物館や台湾市立美術館など名だたるミュージアムと競合になってしまった。

  彰化国中

 すると学生たちは、訪日して遺族を訪れ、民謡『赤とんぼ』を演奏して直訴した。

遺族と彰化国中訪問団

 一行を迎えた遺族はこれにいたく感激し、寄贈先を彰化国中と決めたのだった。

 日本の美術教員から「天才」と呼ばれた黄土水は、1919年の日本統治時代に台湾初の彫刻による裸婦像『甘露水』を制作し、1921年(大正10)年に帝展(現・日展)で入選を果たした。

  黄土水の代表作「甘露水」裸婦像

 この作品に関し、台湾美術史学者の蕭瓊瑞氏はこう語っている。「甘露水の歴史的意義は台湾初の女性の裸体彫像にとどまらない。より大胆に言えば、この作品から当時の台湾人は、文明の発展の度合いにおいて日本を大きく上回っていたと言える」と。

 なお「甘露水」とは、観音菩薩が抱いた水瓶の中の聖水の意である。


 

2 南洋視察団の船名

 1916年(大正5年)4月、高木友枝は南洋視察団の団長として船に乗り込み、英領ボルネオ、ジャワ、シンガポール、香港等を巡歴した。

  台湾医学・衛生の父 高木友枝/福島県出身

 その時、同行した一人に新渡戸稲造がいた。

  新渡戸稲造

 この件について、孫の板寺一太郎氏は『祖父高木友枝を語る』でこう書いている。

板寺一太郎氏ご夫妻

(高木友枝博士の孫)

「(二人は)私交においても互いに敬愛信頼した親友である。その両人が偶然二人の頭文字をとった船に便乗して視察の行を倶にした旅であったから、思い出深いものであったに違いない。」

 ・・船の名は「新高丸」だった。

  新高丸/1904年(明治37年)竣工

 

3 信達地方の医学の祖、小野隆庵

 『長崎遊学者事典』に掲載されている福島県ゆかりの医師で、飛び抜けて早い時期に遊学しているのが伊達郡伏黒村(現:伊達市)の小野隆庵だ。

『長崎遊学者事典』

(平松堪治 著)

 彼は医業に携わる傍ら中国や日本の医書の研究を行い、後に名著と言われる『古方選』、『飛鳥山館薬名考』など30に及ぶ膨大な医書を執筆し“信達地方の医学の祖”と呼ばれる。

  古方選

 ただし、彼の著した医書は漢方に関連するもので、同時代の前野良沢・杉田玄白らが『解体新書』を翻訳して和蘭医学を志向したことを考えると、いささか惜しまれる。

 彼が長崎に赴いたのは宝暦13年(1763年)、51歳の晩年だった。

 福島県域において、最も早く西洋医学教育を開始したのは二本松藩医の小此木天然で、長崎に遊学してシーボルトに学び、遅くとも1824年(文政7年)までには藩校敬学館で蘭方教育を始めている。

 同じく医学の天才であった小野隆庵が長崎に遊学したのがもっと若い時期であったなら、西洋医学教育はさらに50年以上早く、福島の地に開花したかもしれない。

 

/// end of the “その199「黎明期の群像/余話~4」” ///

 

《追伸》

 台湾総督府民政長官後藤新平の右腕として活躍し、今も現地から”台湾医学・衛生の父”と慕われる高木友枝博士はいわき泉藩出身。

 彼の生家についてもリサーチしましたが、現在は現地に係累もなく、既に生家は取り壊されて更地になっていました。

 孫の板寺一太郎氏は東京帝大卒の法学者で、残念ながら医学の道を継ぐご子孫はいらっしゃいませんでした。

 昨年福島市で開催した「福島県近代医学教育150年顕彰記念シンポジウム」には、台湾大学医学部(後藤新平が創設)のNi医学部長がリモート参加されましたが、学内に(黄土水の作品とは別の)高木友枝ブロンズ像が設置され、医学生たちに敬愛されていることをご紹介いただきました。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

福島県立医科大学の歴史

(英語版及び日本語・増補改訂版)

管理人「葉羽」宛のメールは habane8@ybb.ne.jp まで! 
Give the author your feedback, your comments + thoughts are always greatly appreciated.

To be continued⇒“200”coming soon!

HOMENAVIGATION岸波通信(TOP)INDEX

【岸波通信その199「黎明期の群像/余話~4」】2023.4.25配信

 

PAGE TOP


岸波通信バナー  Copyright(C) Habane. All Rights Reserved.