松本良順が頭取を務める幕府医学所を卒業後、大学東校(現:東大医学部)に就職したが、明治4年(1871年)、陸軍軍医総監となっていた松本良順の誘いで兵部省に出仕し近代軍医制度の創始に尽力。
明治23年(1890年)には陸軍軍医総監への昇進とともに陸軍軍医序列第一位の陸軍省医務局長に就任した(部下に森鴎外がいた)。
愛知県病院長であった後藤新平の才能を見出し、内務省衛生局への採用を後押ししたのも石黒忠悳だ。
後藤新平(満鉄総裁/台湾総督府民政局長官/帝都復興院総裁)
日清戦争の時に医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官も務めた石黒は、後藤新平を帰還兵の検疫担当官に任命することを軍務長官児島源太郎に進言し、後藤新平はその期待にて応え大きな成果を残した。
なお、その検疫事業で後藤新平の右腕として活躍したのが、やがて“台湾医学・衛生の父”と呼ばれる福島県出身の高木友枝だ。
高木友枝(疫病の地を防疫の島に変えた”台湾医学・衛生の父”)
日清戦争の検疫が成功した陰には福島県ゆかりの三人の活躍があった。