岸波通信その198「黎明期の群像/余話~3」

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岸波通信その198
「黎明期の群像/余話~3」

1 ハンセン病に生涯を捧げた服部ケサ

2 会津戦争で籠城した女性たちの装い

3 軍医制度を作った石黒忠悳

※写真は"ハンセン病 最初の女性医師"服部ケサ↑

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  The History of modern medicine in Fukushima 2023.4.11配信

「人その友の爲めに生命を捨つるこれより大なる愛はなし 服部ケサ」・・・本文より

 今回も『ふくしま近代医学150年 黎明期の群像』に僕が追補したミニ・コラムをご紹介します。

ふくしま近代医学150年
黎明期の群像

(福島民友新聞社刊)

 内容はハンセン病に生涯を捧げた服部ケサ、会津戦争で籠城した女性たちの装い、そして、軍医制度を作った石黒忠悳の三本です。

 

1 ハンセン病に生涯を捧げた服部ケサ

 須賀川町本町の商人の家に生まれたケサは、明治38年(1905年)東京女医学校(現:東京女子医科大学)に入学。

 300人中合格者19人という難関の医術開業試験に合格して卒業したが、当時は女医に対する病院の門戸は狭く、三井慈善病院に看護婦として勤務。そこで生涯の友となる三上千代子と出会う。

服部ケサ

(ハンセン病最初の女性医師)

 ハンセン病患者の救済に情熱を燃やしていた千代子の影響を受け、やがて二人は英国人伝道師コーン・リーが草津温泉で開設した聖バルナバ医院でハンセン病の患者治療に携わることになる。この時期に洗礼も受けている。

  開設当初の聖バルナバ医院

 当時の草津には300人のハンセン病患者がおり、二人の治療活動は激務を極めた。

 しかもケサには先天的な心臓弁膜症があり、厳しい日常が次第に健康を蝕んで行った。

 やがて二人は、自分たちの手でハンセン病患者が自由に生活できる理想村を造ろうと志し、日本人で初めてのハンセン病専門「鈴蘭医院」の建設を開始する。

  服部ケサ(須賀川市ホームページより)

 だが、念願が叶い鈴蘭医院で診療を始めたケサは、僅か23日目で心臓弁膜症を悪化させ、この世を去る。享年41歳。

 ケサの想いは千代子に受け継がれ、やがてこの地には国立らい療養所栗生楽泉園が造営されることになる。

栗生楽泉園納骨堂

(国立らい療養所)

 人その友の爲めに生命を捨つるこれより大なる愛はなし 服部ケサ

 

2 会津戦争で籠城した女性たちの装い

 1868年10月8日、長州藩を中心とした官軍が会津市中に攻め入り、会津藩は籠城戦に入る。

 城に参集したのは夫や父を戦で亡くした女たち500有余名。

 藩の精鋭はまだ前線に散っており、城中に残されていたのは老兵と傷病兵、そして入城してきた婦女子たち。落城までの一か月間、女たちの闘いが始まった。

戊辰当時の鶴ヶ城

 この籠城戦で生き残った山川操子は城内の様子を回顧録にこう書いた。

「私ども初め、松平家の家臣が会津城に立て籠もりました時は、一同潔く主君のために戦って、一思ひに討ち死にしようと覚悟をしてをったのでございますから、婦人は皆それぞれ拝領の衣類などを着てまゐりました。中には絽の紋つきを着た人もありますし、裾模様を着た人もあります。」

 彼女たちはみな意を決し、晴れ着や正装で入場していたのだ。

城内婦女子の活躍の図

(画:長谷川恵一)

 中には血染めとなった白無垢の女性の姿もあった。

 そして戦局が厳しさを増してくると、彼女らは自らの衣装を引き裂き、傷病兵の包帯に充てた。

  傷病兵手当の陣頭指揮に当たった松平容保の義姉照姫

 血染めの白無垢を着て入場した女性は河原善左衛門の妻アサだと考えられている。河原アサは、白無垢を纏い、喉を貫いた老母(67歳)の介錯をし、娘國子(8歳)を斬り、二首を菩提寺に仮葬して讃岐門より入城した。

 また、山川操子は後に嫁いだ官僚小出光照と死別。ロシアに留学した後、昭憲皇太后の女官となる。兄は東京帝国大学総長山川健次郎、妹は”鹿鳴館の花”山川(大山)捨松である。


 

3 軍医制度を作った石黒忠悳

 梁川(現:伊達市)生まれの石黒忠悳(ただのり:悳は徳の古字)は草創期の軍医制度を確立した人物である。幼名を庸太郎(つねたろう)という。

 父・平野順作良忠は幕府代官の手代であったが、彼が長ずる前に母と共に亡くなり、天涯孤独となった庸太郎は16歳で片貝村(現:新潟県小千谷市)石黒家の養子となる。

石黒忠悳

(日本の軍医制度創設者)

 松本良順が頭取を務める幕府医学所を卒業後、大学東校(現:東大医学部)に就職したが、明治4年(1871年)、陸軍軍医総監となっていた松本良順の誘いで兵部省に出仕し近代軍医制度の創始に尽力。

 明治23年(1890年)には陸軍軍医総監への昇進とともに陸軍軍医序列第一位の陸軍省医務局長に就任した(部下に森鴎外がいた)。

 愛知県病院長であった後藤新平の才能を見出し、内務省衛生局への採用を後押ししたのも石黒忠悳だ。

  後藤新平(満鉄総裁/台湾総督府民政局長官/帝都復興院総裁)

 日清戦争の時に医務局長として大本営陸軍部の野戦衛生長官も務めた石黒は、後藤新平を帰還兵の検疫担当官に任命することを軍務長官児島源太郎に進言し、後藤新平はその期待にて応え大きな成果を残した。

 なお、その検疫事業で後藤新平の右腕として活躍したのが、やがて“台湾医学・衛生の父”と呼ばれる福島県出身の高木友枝だ。

  高木友枝(疫病の地を防疫の島に変えた”台湾医学・衛生の父”)

 日清戦争の検疫が成功した陰には福島県ゆかりの三人の活躍があった。

 

/// end of the “その198「黎明期の群像/余話~3」” ///

 

《追伸》

 日清戦争における日本兵死者1万数千人のうち大部分は戦死ではなく当時大陸で大流行していたコレラによるもので、帰還兵23万人に対する防疫措置は喫緊の課題でした。

 明治政府は広島県と大阪府、下関に検疫所を作り、広島県・似島に帰還兵の大部分を一時隔離し、感染症が国内に広がるのを未然に防ぎました。

 このうち、大阪臨時病院の院長を務めたのが梁川出身の石黒忠悳で、彼の推挙により帰還兵検疫の指揮に当たったのが須賀川医学所出身の後藤新平、その右腕として支えたのがいわき泉藩出身の高木友枝でした。

 この福島県ゆかりの三人の活躍が無ければ、当時の日本は大変な事態に陥っていたことでしょう。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

福島県立医科大学の歴史

(英語版及び日本語・増補改訂版)

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