その後、我が国最初の私立医科大学である済生学舎(日本医科大学の前身)の創始者長谷川 泰に乞われて学舎の耳鼻咽喉科講師を務める。
済生学舎創始者長谷川 泰の銅像
ところが大正5年(1916年)、大学昇格問題がこじれて学生が大量退学する事態となり、極度の経営不振に陥る。
校長の山根正次は小此木信六郎に初代理事長の職を、中原徳太郎に校長の職を託して学校を去る。
二人は寝食を忘れて経営再建に努め、校是をドイツの医聖フーフェラントの『医戒』の言葉「己を捨てて他の為に生くること固(もと)より医の本道なり」を引いて『克己殉公』と定めた。
医聖フクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント
古武士の如き風格とされる小此木信六郎は、その後も黙々と困難な道のりを歩み、大正15年(1926年)、遂に悲願の大学昇格を実現する。
しかし、翌昭和2年(1927年)、中原学長の急死により第二代学長を継いだ小此木信六郎は、就任後ひと月余りで力尽きたように逝去する。
学是『克己殉公』
日本医科大学医史学教育研究会は、彼の死について「学生に説いた『克己殉公』と『医戒』をまさに自現した壮絶な死だった」と評している。