そうした中でも勉学に励んだ二郎は、東京帝大医学部を卒業して明治22年(1889年)に福島県立病院副院長に就任。同病院が廃止されると福島町(当時)に南病院を開設した。
また、有力者に医師の組織化の必要性を説いて廻り、信夫郡・伊達郡・安達郡の信達三郡に医師会を設立。
これを足掛かりに明治39年(1906年)6月、県医師会の発会に漕ぎつけると初代会長に選任された。
一方、月舘の南家は、養父南 持が後妻を迎えてもうけた子孫筋が継承するところとなり、南 二郎夫妻とその養子大曹(だいぞう:南胃腸病院長、日本消化器病学会会長)は福島を去り都立多磨霊園に眠る。墓碑銘は徳富蘇峰の書である。
都立多磨霊園の南家墓
また、大曹の子で社会心理学者の南 博は、新劇女優東恵美子と夫婦別姓婚を行い“日本のサルトルとボーヴォワール”と呼ばれた。
南 博と東恵美子