岸波通信その192「黎明期の群像/近代看護の発祥」

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岸波通信その192
「福島県近代医学黎明期の群像2」

黎明期の群像/近代看護の発祥

※写真はウィリアム・ウィリスの外科治療器具↑

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  The History of modern medicine in Fukushima2 2021.9.4配信

「彼女たちは黒髪を切り落とし、食事の炊き出しや負傷者の看護に忙しく立ち働き、幾夜となく鉄砲を肩にして歩哨の苦労を分担した。」・・・ウィリアム・ウィリスの報告書より

 8月23日の福島民友新聞朝刊に、僕が執筆した「ふくしま近代医学150年~黎明期の群像」第4回『近代看護の発祥 「会津の女性」先駆けに』が掲載されました。

僕が以前勤務していた福島県立医科大学のみらい棟

 こちらへの掲載ルールは「次の回が新聞に掲載された後」ですが、8月30日に第5回『日新館蘭学科と吉村二洲 会津に種痘の大恩人(執筆者:会津若松市文化財保護審議会委員 渡辺明)』が掲載になりましたので、早速、配信したいと思います。

 なお、英語版タイトル・ナンバーは僕の担当2回目という事で「2」としました。

 

ふくしま近代医学150年~黎明期の群像シリーズ・コラム
「近代看護の発祥 『会津の女性』先駆けに」

 昨年はフローレンス・ナイチンゲールの生誕200年だったが、西欧における近代看護の発祥はクリミア戦争から帰還したナイチンゲールが1860年に『看護覚え書き』を著し、近代看護の在り方を定義して以降のことだ。

フローレンス・ナイチンゲール

 それ以前、西欧での看護は主に身内の手によって行われており、雇われて手伝うのは身分が低く教育も受けていない女性たち。

 与薬や身の回りの世話、時には同衾(どうきん)する者もいた。看護という職業は社会的に成立していなかった。

歴史変えた活動

 一方、わが国においてはどうであったか。

 幕末期に英国公使館付医官として来日したウィリアム・ウィリスは1868年、新政府軍の要請を受けて横浜軍陣病院の院長に就いた。

 これが、わが国最初の公立外科病院とされる。

ウィリアム・ウィリス

 そこで雇用された「介抱女」11人が日本で最初の職業看護婦とする説が唱えられたが、後の研究で否定される。彼女らの職務は看護とは別物だったのだ。

 半年後、横浜軍陣病院が移転のため閉院になると、ウィリスは同僚のシドル医師に後事を託し、東北戦線に軍医として従軍する。

 彼は従軍中に見聞した話として、日本の女性看護人の役割は西欧の「雇われ看護人」と同様だったと本国の兄に宛てて書き送っている。

横浜軍陣病院

 やがてウィリスは落城後の会津に入るが、鶴ケ城内の女性たちについて本国への報告書にこう記している。

「包囲攻撃を受けた中で日本婦人の勇敢で精力的な働きについては数々の物語が伝えられている。彼女たちは黒髪を切り落とし、食事の炊き出しや負傷者の看護に忙しく立ち働き、幾夜となく鉄砲を肩にして歩哨の苦労を分担した」と。

城内婦女子の活躍の図

(画:長谷川恵一)

 この時に奥女中や籠城した藩士の妻娘500有余人を率いて傷病人の看護や炊き出しに当たらせたのは藩主松平容保(かたもり)の義姉照姫(てるひめ)だ。

松平容保の義姉照姫

 そもそもこの時代、戦傷者の看護は女性の役割ではなかったが、会津軍は本来予備役の白虎隊まで出陣せねばならぬほど男性の手が逼迫(ひっぱく)していた。

 そこに会津藩支援のため入城したのが元幕府西洋医学所頭取の松本良順(りょうじゅん)以下5人の蘭方医。かくして、近代医学に基づく病院の中で「組織化された女性による集団看護」が成立した。

 わが国で初めてのことであり「介抱女」とは次元が異なる活動だ。

 ウィリスは東京に帰還した翌69(明治2)年、東京医学校兼病院(東大医学部の前身)の創始者となり「看病婦」の採用を行う。採用条件は40歳以上。

現在の東京大学医学部附属病院

 これが東大病院看護婦の起源であり、日本における職業看護婦の起源とも言えよう。

 彼がそれに踏み切った時、脳裏には鶴ケ城内軍陣病院で触れた革新的な看護活動があったのではないか。

◆ 担い手育成支援

 71年、白河仮病院に大学東校(東京医学校兼病院の後身)から横川正臣(まさおみ)が派遣されて院長となり、福島県で最初の看護婦まつ、みきの2人を採用する。横川は看病婦制度を熟知する人物だ。

 わが国における近代看護の先駆けとなった照姫らの活動はウィリスを通して看病婦制度に結実し、それを先進的に取り入れたのもまた福島県だった。

福医大の淵源白河医術講議所があった白河市本町

 さらに、日本初の看護師養成機関「有志共立東京病院」の設立を進言し、チャリティー・パーティーによって資金提供を行ったのは「鹿鳴館の花」と呼ばれた会津出身の大山捨松(すてまつ)であり、日本で2番目の養成機関「同志社病院京都看病婦学校」を創設した新島襄(じょう)の妻であり協力者だったのが新島八重だ。

「鹿鳴館の花」大山捨松

 本県は、わが国における近代看護の成立に大きく貢献してきたと言える。

(福島県立医大医学部同窓会特任事務局長 岸波靖彦)

 

/// end of the “その192「黎明期の群像/近代看護の発祥」” ///

 

《追伸》

 福島民友新聞で連載開始以降、「ふくしま近代医学150年/黎明期の群像」は各方面から大きな反響をいただいています。

 これまで地域の医学史はありましたが、福島県全体を俯瞰して、なおかつ看護まで含めて近代医学の発祥から発展までトータルに書かれたものは存在しなかったと思います。

 福島県立医科大学の歴史でさえ、医大に直接繋がる戊辰戦争後の白河医術講議所から書き起こされており、幕末以前、各藩で西洋医学への取り組みがなされていた事実には着眼されていなかったのです。

 今回の研究の結果、多くの事が分かってきました。

 福島県は、東北地方でもいち早く近代医学教育に着手した先進県であったこと、また、我が国における近代看護の発祥は会津鶴ヶ城の軍陣病院における活動だったこと、我が国で初めて子宮外妊娠の診断と手術記録を残した医師がいたこと、遠く台湾で「台湾医学・衛生の父」と尊敬される医学者がいたこと、新たな病原菌を発見しその治療に献身した医師がいたこと、そして、郷土の偉人、特撮の円谷英二監督の先祖は「解体新書」シリーズの挿絵画家であったこと等々。

 全20数回に及ぶこのシリーズ・コラムですが、僕の執筆再登場は終盤の締めの頃になるので、当面は福島民友新聞社と協力しながら、各編のブラッシュアップに取り組んでいくことになります。

 今後も驚くような事実が書かれて行きますので、そのサプライズに乞うご期待!

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

福島県立医科大学の歴史

(英語版及び日本語・増補改訂版)

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To be continued⇒“193”coming soon!

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【岸波通信その192「黎明期の群像~近代看護の発祥」】2021.9.4配信

 

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