この時に奥女中や籠城した藩士の妻娘500有余人を率いて傷病人の看護や炊き出しに当たらせたのは藩主松平容保(かたもり)の義姉照姫(てるひめ)だ。
松平容保の義姉照姫
そもそもこの時代、戦傷者の看護は女性の役割ではなかったが、会津軍は本来予備役の白虎隊まで出陣せねばならぬほど男性の手が逼迫(ひっぱく)していた。
そこに会津藩支援のため入城したのが元幕府西洋医学所頭取の松本良順(りょうじゅん)以下5人の蘭方医。かくして、近代医学に基づく病院の中で「組織化された女性による集団看護」が成立した。
わが国で初めてのことであり「介抱女」とは次元が異なる活動だ。
ウィリスは東京に帰還した翌69(明治2)年、東京医学校兼病院(東大医学部の前身)の創始者となり「看病婦」の採用を行う。採用条件は40歳以上。
現在の東京大学医学部附属病院
これが東大病院看護婦の起源であり、日本における職業看護婦の起源とも言えよう。
彼がそれに踏み切った時、脳裏には鶴ケ城内軍陣病院で触れた革新的な看護活動があったのではないか。
◆ 担い手育成支援
71年、白河仮病院に大学東校(東京医学校兼病院の後身)から横川正臣(まさおみ)が派遣されて院長となり、福島県で最初の看護婦まつ、みきの2人を採用する。横川は看病婦制度を熟知する人物だ。
わが国における近代看護の先駆けとなった照姫らの活動はウィリスを通して看病婦制度に結実し、それを先進的に取り入れたのもまた福島県だった。
福医大の淵源白河医術講議所があった白河市本町
さらに、日本初の看護師養成機関「有志共立東京病院」の設立を進言し、チャリティー・パーティーによって資金提供を行ったのは「鹿鳴館の花」と呼ばれた会津出身の大山捨松(すてまつ)であり、日本で2番目の養成機関「同志社病院京都看病婦学校」を創設した新島襄(じょう)の妻であり協力者だったのが新島八重だ。
「鹿鳴館の花」大山捨松
本県は、わが国における近代看護の成立に大きく貢献してきたと言える。