僕は、まさにこの点こそが沢田名垂が150年前の事件を知っていて、密かに『武教小学』を下敷きにした証拠ではないかと考えます。
それほどまでにして『武教小学』を用いた理由は何か? ・・それは実際に読んでみて理解しました。武士として・・いや人としての生きるべき道を切々と説く『武教小学』は、読む人の心を打つのです。
どうでしょう? 朱子学を否定するとか、そういう外側の情報を抜きにして虚心坦懐に読めば、その教えは心に沁みてくるのではないでしょうか。
素行を慕って多くの門人が集まった事実が全てを物語っていると思います。
さらに言えば、「君父の恩情」について、素行が積極的に天皇を念頭に置いたかどうかは大いに疑問です。
素行は本来の四書五経に立ち返ることを是とする人物でしたから、単純に四書五経が書かれた時代の中国の為政者は「王」であったからだと考えられないでしょうか?
僕にはこの名著『武教小学』を世に出した人物が、天皇親政に復帰するイデオロギーを持っていたとは到底考えられません。
・・・かくして、会津人山鹿素行の名は会津から消され、その高邁な精神のみが『童子訓』に形を変え、会津士魂の礎となったのではないか。それが僕の考えです。
山鹿素行は、会津史においてもっと再評価されてしかるべき人物です。17世紀の保科公との確執は、もうノーサイドでいいのではないかと思うのです。
貴方はどう考えますか?