岸波通信その180「写真展“わすれない”の真実」

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岸波通信その180
「写真展“わすれない”の真実」

1 坂田明氏の「鎮魂」

2 写真展「わすれない」

3 アンブレラあつしの回答

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  Story of "Wasurenai" 【2017.9.2改稿】(当初配信:2013.5.9)

「忘れない」という 「忘れる」はずがない
  ・・・「大和伸一写真展「わすれない~揺れたあの日からの記憶~」への献辞(アンブレラあつし)

 4月中旬に福島コラッセで4日間だけ開催した大和伸一の写真展「わすれない~揺れたあの日からの記憶~」が大好評のうちに幕を閉じました。

◆開催概要 大和伸一写真展「わすれない~揺れたあの日からの記憶~」
・日時 4月12日(金)~15日(月)
(開場)金曜~日曜まで午前9時~17時
月曜日午前9時~15時
・場所 福島コラッセ展示ルーム (福島駅西口)

Web写真展「わすれない」
~揺れたあの日からの記憶~

(大和伸一)

 写真展では、3.11以降の南相馬など福島県内被災地の風景を記録した写真約100枚を展示しました。

 これは、大和伸一が震災直後から二年間に渡り、被災地の「そこにあったはずの生活」を見つめ続けた魂の記録です。

 去る4月27日に友人達12人が集まり、福島市内で写真展の打ち上げを行いました。

 すると突然、仲間の一人、アンブレラ酒井がこんなことを言い始めたのです。

「『忘れない』…のかな。『忘れたい』じゃないのか?」

 すると、みな一家言ある僕の仲間達のこと。喧々諤々の議論で、もう収拾がつきません。

 仕方が無いので、大和伸一が今回の写真展を開催するに至った本当の意図を説明することにしました。

 そう…彼に写真を撮らせたのは僕なのです。

   

 

1 坂田明氏の「鎮魂」

 東日本大震災が起きた時、僕は会津若松にある県立博物館に勤務していました。

 福島第一原発の爆発事故まで引き起こした未曾有の災害の直後で、県内は大混乱の様相を呈していました。

 そんな福島県の様子を見て、ある人物が赤坂憲雄博物館長に話を持ってきました。

「福島県は復興だ再生だと忙しいが肝心な事を忘れている。それは犠牲になった人たちの鎮魂だ。全てはそこから始めなくてはならない。それを私にやらせてもらえるだろうか。」

 ~そう申し出たのは、日本ジャズ界の巨匠坂田明氏でした。

 坂田氏の子息が属するジャズバンドが県立博物館でコンサートを行ったこともあり、知らぬ仲ではなかったのです。

Web写真展「わすれない」
~揺れたあの日からの記憶~

(大和伸一)

 この「岸波通信」で『フィールドデッサン闇の中の黒い馬』を連載している金澤学芸員が担当となり、坂田氏がサックスのソロで「鎮魂」を奏でる企画が早々に立ち上げられました。

「金澤さん、せっかく坂田さんが福島県の被災地で演奏していただけるのだから、何かきちんとした記録を残しておいた方がいいよね。その写真か映像を秋の『会津・漆の芸術祭~東北へのエール~』で発表できればいいね。」

 副館長であった僕の問いかけに、金澤さんがこう答えました。

「いいアイディアですね。でも…予算が無いのです。」

「う~ん…。」

 博物館とはいえ県の一機関。お役所の仕事は、予算が無ければ動かせないのです。

「じゃ、こうしよう。同行して写真を撮るのは僕の友人の大和伸一。ビデオ撮影は、かつて番組制作会社にいたオリーブさん。二人には『無償ボランティア』ということで話をするよ。」

 急転直下、話はまとまりました。

 大和伸一は、坂田明さんと同行して被災地へ入ることになりました。

Web写真展「わすれない」
~揺れたあの日からの記憶~

(大和伸一)

 それがきっかけとなって、大和伸一はそれ以降も度々被災地へ足を運ぶことになりました。

(そうして撮り溜めた写真の一部が、今回の展覧会に繋がったのです。)

 坂田明氏が南相馬の海に向かい「浜辺の歌」などを演奏した記録写真は、『会津・漆の芸術祭』のオープニング・セレモニーを飾ることが決定しました。

 大和伸一がモノクロで撮影し、金澤学芸員が畳ほどもあろうかという超大判の写真に印刷した写真たちは大迫力です。

(坂田明+大和伸一+金澤文利…まさに夢のコラボレーションですね。)

 その中の一枚~坂田さんがサックスを抱えて海に向いている写真を、僕はしばらくの間、博物館の副館長室に掲示し、来客の度肝を抜いていました。

 そして、このところ写真発表の機会がなかった大和伸一も、来るべき「鎮魂」写真展には大きな期待をしていたはずです。

 しかし…芸術祭開幕のほんの数日前、「事件」が起きました。

Web写真展「わすれない」
~揺れたあの日からの記憶~

(大和伸一)

 坂田氏のマネージャーから突然、「写真展中止」の通告があったのです。

 開幕の準備を全て終えていた博物館は騒然。告げられた理由は「自分としての『鎮魂』は、あの南相馬の浜辺で完結した」というものでした。

 しかし、本人の諒解を得て「鎮魂」の撮影に臨んだのが6月。芸術祭の開幕は10月。その間、何のクレームも無く順調に事が運んでいたのですが…。

 実は、坂田さんの演奏の当日、急にテレビカメラのクルーが同行して来ました。

「おそらく、その編集映像の使途との関係で肖像権が問題になったのではないか?」

 ~そんな事も話題になりましたが、真相は分りません。マネージャーが『本人の意思』という以上、もはやどうすることもできないのです。

 セレモニーの方は急遽代替案を講じて間に合わせましたが、落ち込んだのは大和伸一です。

 見るものを唸らせるに十分な写真たちでしたし、何と言っても写真家としての再起をかけて挑んだ企画だったからです。

 彼の無念の表情…その落胆は測り知れないほどでした。

   

 

2 写真展「わすれない」

 その年が明けると、彼の心中を察した金澤学芸員のサポートによって、伸一の被災地写真展が南相馬市の会場で開催されました。

 再起した伸一は再び被災地へ通い始め、その後の被災地を撮影し続けました。

 そして二年が過ぎた頃、伸一から福島市で「写真展」を開催したいという話があり、僕は驚きました。

 そう…僕は「大反対」だったのです。

Web写真展「わすれない」
~揺れたあの日からの記憶~

(大和伸一)

 僕が「被災地写真展」に反対した理由~それは悲劇を「忘れたい」からでした。

 震災直後ならば、赤裸々な被災の現状を伝える「報道写真」として、「震災写真展」は大きな意味を持っていたはずです。

 しかし二年を経て、被災の当事者達は何とかしてあの悲しみを乗り越え、再び立ち上がろうとしているさ中にありました。

 そういう人たちに寄り添い、励まし、元気を与えて行くことこそ大切な事なんじゃないのか・・そういう想いでした。

 震災で母を失った僕自身にも、「もう振り返るのはやめにして前を向かせてくれないか」という切実な気持ちがありました。

「どうしてもやると言うなら協力を惜しまないけれど、何か別の方法は無いの?」

 僕がそう問いかけると、伸一は宙を見上げ…

「俺は…どうしてもこれを発表しないと、前に進めないんだ。」

 ほとんど涙声に聞こえました。

 その時はじめて彼の気持ちに想いが至ったのです…「鎮魂」写真展の挫折で心が折れてしまった彼のトラウマに。

 もともとその原因…あの写真を撮らせたのは僕自身であったことに。

「分った。何も言うな。協力する。」

Web写真展「わすれない」
~揺れたあの日からの記憶~

(大和伸一)

 写真展が始まった週末の日曜日、福島駅西口のコラッセ会場に赴きました。

 会場には途切れることなくお客さんが出入りし、盛況を呈していました。

 その一枚一枚を見進めるうち、意外なことに気づきました。

 震災直後からしばらくは、「引き」で被災現場そのものを収めた写真でしたが、途中から変化が現れます。

 それは、流された定期券であったり、アルバムの写真、置き去りにされた牛、家の中の仏壇…そう、「かつてそこにあったはずの当たり前の生活」に視点が向けられて行くのです。

 そして、被災地から避難してきた子ども達が明るさを取り戻した笑顔…。

 (そうか。これを見せたかったのか。)

 「震災の悲惨さ」ではなく「忘れてはならない記憶」こそがテーマであったことに気づいたのです。

 僕は胸がいっぱいになり、「よかったな」とだけ言って彼の手を握り締めました。

 本当は、それ以上しゃべれば涙が出そうだったのです。

Web写真展「わすれない」
~揺れたあの日からの記憶~

(大和伸一)

 伸一が言いました。

「実は昨日、一人のばあちゃんがやって来たんだよ…」

 会場の入口までやって来たそのおばあちゃんは、何度も足を踏み入れようとしながら躊躇し、しばらくそこに留まっていたそうです。

 「何か」が彼女の足を踏みとどめさせるのでしょう。

 それでも彼女は、この写真展を見たかった…。

 やがて彼女は、伸一にゴメンナサイをするように深く会釈をし、会場を去って行きました。

 おそらく写真の「当事者の一人」~南相馬市からの避難者でしょう。

 「忘れない」、「忘れたい」、しかし「忘れてはならない」…そんな気持ちの逡巡があったのではないか。

 しかし彼女も、いつの日かきっと、伸一によってこの写真たちが残されたことに感謝をするに違いありません。

   

 

3 アンブレラあつしの回答

 場面は、冒頭の「打ち上げパーティ」に戻ります。

 仲間達に大和伸一が今回の写真展を開いた経過について説明し終わると、今度はアンブレラあつしが口を開きました。

 「わすれない」・「わすれたい」論争を仕掛けた本人は、ちゃんと答を用意していました。

 そしてそれを「詩」の形にして、その場で読み上げたのです。

Web写真展「わすれない」
~揺れたあの日からの記憶~

(大和伸一)

「忘れない」という

「忘れる」はずがない

「非日常」が「日常」になる「残酷」から

 逃げること 忘れることが 許されないことなのか

 あの日からの「悲しみ」を 「不条理」を

 記憶の中に閉じ込めて 私は日常を生きる

 今日また私は 写真の中に

「悲しみ」 「不条理」を重ね

 そっと置いていくことができた

 だから ありがとう

 (大和伸一写真展「わすれない~揺れたあの日からの記憶~」に寄せて アンブレラあつし)

 そう…「忘れるはずがない」のです。

 しかし、それでも人は、それを乗り越えて行かなければなりません。

 悲しみを乗り越えることができた時、それは「忘れたくない記憶」に変わるのでしょう。

 震災の「忌まわしい記憶」ではなく、その向こう側にあったはずの「欠けがえのない記憶」へと。伸一が残したかったものは、きっとそれだったに違いありません。

 

/// end of the “その180 「写真展“わすれない”の真実」” ///

 

《追伸》

 打ち上げがあった日、大和伸一やアンブレラ酒井、ツーさん、Awano、紅緒、ケメ、ユウなど「通信」関係者も多い12人のメンバーの中に矢部君も居ました。

 みんなが二次会へ移動しようとする頃、「カミサンが迎えに来た」と言って一人だけ早く帰ることになったのです。

 ところが…

 彼は翌朝、犬の散歩に出かけたまま帰らぬ人となりました。突然の心筋梗塞。58歳でした。

 仲間の驚きとショックは言うまでもありません。

 そのショッキングな出来事のため、前夜の「打ち上げ」の記憶も永遠のものとなりました。

 「忘れない」、「忘れる」はずがない最後の晩餐。

 志半ばで逝ってしまったナイスガイに合掌。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

Web写真展「わすれない」
~揺れたあの日からの記憶~

(大和伸一)

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To be continued⇒“181”coming soon!

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