不思議な出来事をホテルのバーテンダーに話すと、彼は答えます。
「このホテルでは、一年に一度だけ亡くなった方に出会えるという噂があるのです。生前と同じように笑ったりしゃべったり…そして毎年、成長されるのだそうでございます。」
彼女は、その言葉に一縷の光を感じ、「また、来年の娘の誕生日にもここへ来よう」と生き続ける決心をするのでした。
そして二年目、三年目と年を重ねる中で、幽霊と思った自分の娘は確かに自分の目の前に現れて、彼女と一晩を過ごすようになります。でも、朝になると消えてしまうのです。
それでも彼女はしあわせでした。
毎年、成長を重ねる娘と、年に一度だけでも出会えることができるのですから。
しかし、年に一度の幸せなイベントにも終わりがやってきます。
彼女が重い病に冒され、余命いくばくも無いことが医者に告げられるのです。
幻の娘にその事を告げなければと決心をして訪れたホテルで、彼女は事実を知ることになるのでした…。
~僕は、この主人公の気持ちに感情移入しながら読み進めるうち、胸が締め付けられるような気持ちになりました。
「親が死に やがて子供死に 孫が死に」というのは、一休宗純和尚が説いた“めでたい話”だそうですが、子供に先発たれた親御さんほど気の毒なものはありません。
あるいは事故で、あるいは病で、お子さんを亡くされた方が僕の周囲にも何人かいらっしゃいますが、その憔悴たるや見るも無残で、慰めの言葉もかけることができませんでした。
この話の主人公の境遇は、どこにでもある話で、いつ自分にそんな不幸が訪れるかも知れないのです。大震災を経験した被災三県に住む身であれば、他人事ではありません。
そういう絶望に沈んだ主人公の身の上に起こった奇跡のような出来事。それなのに、それさえ奪われようとしている。
この部分がなければ、「セイムタイム・ネクストイヤー」はただのファンタジーになっていたでしょう。
絶望から立ち直った人間が、さらなる試練を受ける…これもまた現実では、よくある事なのです。