岸波通信その170「フニクリフ・ニクラの真実」

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Present by 葉羽
「フニクリ・フニクラ」 by Nocturne
 

岸波通信その170
「フニクリフニクラの真実」

1 ベスビオ火山の大噴火

2 フニクリ・フニクラの誕生

3 大作曲家の盗作疑惑

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  Funiculi funicula  【2016.8.29改稿】(当初配信:2011.7.16)

「赤い火をふくあの山へ登ろう 登ろう」
  ・・・フニクリ・フニクラより

 伝説の名番組「さんまのSUPERからくりTV・ご長寿早押しクイズ」のテーマソングでもあった「フニクリ・フニクラ」。

 でも、このリズミカルなメロディを聞いて「鬼のパンツはいいパンツ~♪」というフレーズが浮かんでくるのは僕だけではありますまい。

  「鬼のパンツ」

  鬼のパンツは いいパンツ
  つよいぞ つよいぞ

  トラの毛皮で できている
  つよいぞ つよいぞ

  5年はいても やぶれない
  つよいぞ つよいぞ

  10年はいても やぶれない
  つよいぞ つよいぞ

  はこう はこう 鬼のパンツ
  はこう はこう 鬼のパンツ

  あなたも あなたも あなたも あなたも
  みんなではこう 鬼のパンツ

鬼のパンツ

 こんな粋な歌詞をだれが作ったのかとJASRACで調べますと、公式には「作詞者不詳」とありますが、どうやらNHK初代“歌のお兄さん”田中星児さんが作ったという説が有力であります。

 童謡歌手である田中星児さんは、作詞・作曲を手がけるシンガーソングライターとしても活躍し、NHK教育番組向けの曲を多く作っていました。

(閑話休題)

 ところで原曲の方の「フニクリ・フニクラ」…日本では、イタリアで古い民謡と認識されて来たのではないでしょうか。

 実はこの曲、民間企業によって制作された世界初のCMソングだったのです。

 ということで、今回はCMソング「フニクリ・フニクラ」の真実に迫ります。

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1 ベスビオ火山の大噴火

 「フニクリ・フニクラ」とはイタリアのベスビオ火山にあった登山鉄道の名前。

 ベスビオ火山は、ナポリから東へ約9キロメートルのナポリ湾に面した火山で、現在は休火山です。

 しかし、ローマ時代の紀元79年にはベスビオ火山の大噴火が起こり、麓にあったポンペイの町は時速100キロの火砕流に一瞬のうちに呑み込まれ、その後も降り続いた火山灰によって完全に地中に埋もれてしまいました。

ベスビオ火山大噴火の様子

(想像図)

 この大噴火の犠牲者の一人に、『博物誌』を著したローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)がいまして、その甥であった小プリニウスが、伯父が死んだ当日の様子を友人タキトゥスに詳細に書き送った書簡が残されています。

(この描写から、火山灰を巻き上げる大規模な噴火がプリニー式噴火と呼ばれるように。)

 ベスビオ火山は、その後も数十回の噴火を繰り返しますが、紀元79年の大噴火の後はここに集落が作られることはありませんでした。

 しかし、その後1000年以上にわたって「町」という地名で呼ばれたこと、散発的に古代の遺品が発見されたことなどから、「都市が埋まっているらしい」と言われ続けて来たのです。

 このポンペイ遺跡が発見されたのが1748年のこと。

 市民広場や浴場、数多くの住宅や別荘の遺構にはローマ時代の高い文化水準を推測させるフレスコ画やコイン、落書きなども発見され、町のそばからは1000平方メートルの広さを持つホテルも見つかりました。

(男女の交わりを描いた絵も有名。)

 この大発見によってポンペイ地域は一躍脚光を浴びることになり、ナポリ湾に面する風光明媚な景色とあいまって多くの観光客が訪れる世界有数のスポットへと成長するのです。

「ユリア・フェリクス家」

(ポンペイのフレスコ画)

 「これを放って置く手はない」と考えたのが世界最初の旅行エージェントと言われるトーマス・クック旅行会社。

 同社は、ナポリ湾やポンペイ遺跡を一望できるベスビオ山頂まで、観光客を運ぶための登山鉄道を計画したのです。

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2 フニクリ・フニクラの誕生

 1880年に竣工した登山鉄道は「フニクリ・フニクラ」と命名されました。

 登山鉄道(ケーブルカー)は、イタリア語で「フニコラーレ」と言いますので、「フニクリ・フニクラ」は語呂合わせの“でんでん電車”というニュアンスでしょう。

 ベルビオ火山の急勾配を登るために全区間を4つに分割されましたが、第二区間では最大斜度25度、第四区間ではさらにきつい傾斜がありました。

 鉄道会社にとってまず大切なのは“乗客の安全”ということで、脱落防止レールを併設したり、最大勾配となる第四区間ではケーブル巻上げ式にするなど最大限の安全配慮がなされました。

 ところが、あにはからんや、会社がいくら安全性をアピールしても乗客は“見た目の急勾配”に恐れをなし、閑古鳥が鳴く状況が続いたのです。

開業当時のフニクリ・フニクラ

←こんなに急角度!

 トーマス・クックは一計を案じました。

 「理屈で安全性をアピールするより、登山鉄道の楽しさを訴えよう!」

 さっそく彼は、500曲以上の作曲を手がけた当代きっての人気指揮者ルイジ・デンツァに曲づくりを依頼します。

 そうして完成したのが、万人に愛されるあの名曲「フニクリ・フニクラ」でした。

 この曲は、ピエティグロッタ聖母を祭ったナポリの民衆歌謡祭にエントリーし見事入賞。

 CMソングの影響で、登山鉄道はまたたく間に大人気の観光名物へと変貌を遂げました。

(毎年9月に開催されるピエティグロッタ祭。花火・歌・ダンスで賑わい、歌謡コンクールが催されます。カンツォーネの名曲『オーソレミオ』もこの歌謡祭の入賞曲。)

 トーマス・クックの“どや顔”が目に浮かぶようです。

フニクリ・フニクラ登山鉄道

 この「フニクリ・フニクラ」の日本語版歌詞は、「♪ あか~い火をふくあの山へ~登ろう~登ろう」という、まさに登山鉄道のCMソングにふさわしい内容になっています。

 ところが、ジャーナリストであるジュゼッペ・トゥルコが担当した原曲の歌詞は大違い。

 登山鉄道に恋人を誘い頂上でいきなりプロポーズをする情熱的な恋の歌だったのです。

 (以下が原語直訳の歌詞)

  「フニクリ・フニクラ」(直訳)

 夕方 ねえ君 ぼくは登ったんだ
 判る どこへだか?
 そこは情けのうすい君の心が もう
 ぼくを弄ぶことのできないところさ
 そこは火が燃えているが 逃げれば
 君が逃げるがままにしておくところ
 後を追ったり 傷つけたりしないところさ
 見ているだけならば

 ※ 行こう 行こう 頂上めざして
 行こう 行こう 頂上めざして
 フニクリ フニクラ フニクリ フニクラ
 行こう 上へ 登山電車で!

 ぼくらは山へ行く ねえ娘さん
 歩くこともなく
 君は見る フランス、ポルトガルにスペイン
 ぼくは君を見てる
 ロープに引かれ、しゃべるやいなやもう着いてる
 ぼくらは空へ行くんだ
 まるで突風のように
 昇っていく

 ※ くりかえし

 登った 娘さん 登ったぞ
 もうてっぺんの頂上だ
 到着して 引き返して そして戻って
 ここに止まる!
 こちらのてっぺんの頭が向かうのは
 君のほう 君のまわり
 そして心は歌う でも煩わしいから
 いっそ結婚しよう 娘さん!

ポンペイとベスビオ火山

「まめしばイタリア紀行」より

 うーむ、さすが情熱の恋の国…感心することしきりでございます。

 ところでこの「フニクリ・フニクラ」、あまりにも民衆から愛されて大衆化したために、海外ではCMソングであることが忘れられ、思わぬ事件を引き起こします。

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3 大作曲家の盗作疑惑

 その当事者はドイツの後期ロマン派を代表するリヒャルト・シュトラウス。

 リヒャルト・シュトラウスといえば、「2001年宇宙の旅」で使われて有名になった『ツァラトゥストラはかく語りき』などの交響詩や『エレクトラ』、『ばらの騎士』などのオペラの作曲で知られ、また指揮者としても活躍した大音楽家であります。

 彼は、1886年に作曲した交響的幻想曲『イタリアから Aus Italien』の第4楽章に、このメロディを取り込んでしまったのです。

 Rシュトラウスとしては、世界中に知られる「フニクリ・フニクラ」の旋律が、てっきりイタリアに古くから伝わる民謡だと勘違いしたのでした。

 曲の発表後にそのことを知った作曲者のデンツァは激怒。

 Rシュトラウスを訴えて勝訴し、以降シュトラウスは、この曲が演奏されるごとにデンツァに著作権料を支払うハメになりました。

 オーマイガッ!

リヒャルト・シュトラウス

 「フニクリ・フニクラ」はやがて、イタリアの風景を象徴する代表的な楽曲の一つとして認知されることになり、イタリアの作曲家アルフレード・カッセラが作った「狂詩曲イタリア」の中で“引用”されたり、ロシア五人組の一人リムスキー・コルサコフも「ナポリの歌」というタイトルで管弦楽曲に編曲しています。

(これらの著作権問題に関しては不明ですが…。)

 それから約1世紀、極東の島国で「鬼のパンツはいいパンツ♪」という歌詞が付けられて国民の愛唱歌になることなど、デンツァには思いもよらなかったでしょうけれど。あはははは!

 多くの観光客を集め一世を風靡した「フニクリ・フニクラ」登山鉄道でしたが、1944年3月のベスビオ火山噴火によって全区間が不通となりました。

 その後幾度か復旧の計画が立てられたものの、結局、姿を消してしまいました。

フニクリ・フニクラ登山鉄道

 現在は、1990年に建設された二人乗りの腰掛けリフトが、観光客を山頂の火口付近まで運ぶのみとなっています。

 「フニクリ・フニクラ」の記憶よ、永遠なれ。

 

/// end of the“その170 「フニクリ・フニクラの真実」” ///

 

《追伸》

 ポンペイはもともと紀元前7世紀頃にサルノ川付近にイタリア先住民族オスキ人が形成した集落が発祥となっています。

 紀元前526年に侵攻してきたエルトリア人に占領されると、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人らと連合してこれを撃退。

 その後、幾度か外敵からの侵攻を受けますが、紀元前89年にカンパニア諸都市連合としてローマに対抗した戦争に敗北して以降、ローマの殖民都市となりました。

 ポンペイはナポリ湾からローマに荷物を運ぶアッピア街道の重要な拠点に位置していたため、むしろローマによる被征服後に商業都市として繁栄を極めることになります。歴史の皮肉と言えましょうか。

 市民広場を中心として碁盤の目のように整然と区画された計画都市は陸海の交通の要所として人々の往来が盛んで、市内には娼婦の館も整備されていました。

 発掘された娼婦の館からは男女の交わりを赤裸々に描いた壁画が数多く出土し、ポンペイは別名『快楽の都市』とも呼ばれます。

娼婦の館から出土した壁画

 ピカイチ君の『欧州のまちづくりレポート』にも、“イタリア人はエッチだぞ”という写真がありますが、ま、彼の言うとおり「万国共通違和感なし!」というところでしょうか。あはははは!

 今回は「葉羽のコーヒーブレイク」から初の移植記事となりましたが、“何でもあり”のコーヒーブレイクには他にも有力ネタがありますので、今後も移植記事が出てくるかもでございます。

 では、また次の通信で・・・See you again !

「ポンペイ最後の日」

(カール・ブリューロフ)

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To be continued⇒“171”coming soon!

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【岸波通信その170「フニクリ・フニクラの真実」】2016.8.29改稿

 

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