この大噴火の犠牲者の一人に、『博物誌』を著したローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)がいまして、その甥であった小プリニウスが、伯父が死んだ当日の様子を友人タキトゥスに詳細に書き送った書簡が残されています。
(この描写から、火山灰を巻き上げる大規模な噴火がプリニー式噴火と呼ばれるように。)
ベスビオ火山は、その後も数十回の噴火を繰り返しますが、紀元79年の大噴火の後はここに集落が作られることはありませんでした。
しかし、その後1000年以上にわたって「町」という地名で呼ばれたこと、散発的に古代の遺品が発見されたことなどから、「都市が埋まっているらしい」と言われ続けて来たのです。
このポンペイ遺跡が発見されたのが1748年のこと。
市民広場や浴場、数多くの住宅や別荘の遺構にはローマ時代の高い文化水準を推測させるフレスコ画やコイン、落書きなども発見され、町のそばからは1000平方メートルの広さを持つホテルも見つかりました。
(男女の交わりを描いた絵も有名。)
この大発見によってポンペイ地域は一躍脚光を浴びることになり、ナポリ湾に面する風光明媚な景色とあいまって多くの観光客が訪れる世界有数のスポットへと成長するのです。