彼らが恐れたのは、風船爆弾の破壊力そのものではなく、“生物兵器”の搭載を懸念していたからでした。
それによって本土被害が広がれば、国民の戦意そのものにも影響しかねないと危惧したのです。
このため、アメリカ陸軍は不発弾の調査に当たる要員に防毒マスクなど対生物兵器用の装備を着用させたほか、徹底的な報道管制を敷いて「ふ号兵器」のことを国民に秘匿します。
しかし、逆にそのことが悲劇を生む結果にもなりました。
戦時中、「風船爆弾」による直接の人的被害は報告されていませんが、既に作戦が終了していた1945年の5月、正体を知らずに不発弾に触れたピクニック中の民間人6人が爆死したのです。
引率の女性が1名に子供が5名・・・これが、太平洋戦争中、アメリカ本土で日本軍の攻撃により犠牲者が出た唯一のケースとなりました。
また、生物兵器搭載の疑念が晴れないアメリカ軍は、次々に飛来する風船爆弾を撃ち落すに当たっても居住地から離れた場所で撃墜できるよう細心の注意を払わねばなりませんでした。
さらには、日本軍が気球に乗り込んで本土に潜入する可能性も考慮しなくてはなりませんでした。
(この作戦は、日本軍によって現実に検討されていました。)
太平洋を越えて次々飛来する「ふ号兵器」は、アメリカ軍に多大な心理的プレッシャーを与えたのです。