岸波通信その171「風船爆弾の真実」

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岸波通信その171
「風船爆弾の真実」

1 幻の「ふ号兵器」

2 二つの風船爆弾

3 犠牲者たち

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  Balloon bomb  【2017.8.23改稿】(当初配信:2011.8.11)

「米西部に漂着すると思われる浮遊物は、福島第一原子力発電所から流れ出た放射性物質に汚染されているかもしれないが、そうした可能性は非常に低く、浮遊物が流れ着くのに長い時間がかかることを考慮すれば、被害は微々たるものだろう。」
  ・・・米放射線学大学協議会(ACR)ジェームズ・ヘベチ会長

 8月8日、アメリカのABC放送が報じたところによりますと、東日本大震災の津波で流された家屋や犠牲者の遺体、船舶などが巨大な「ガレキの島」となって太平洋を漂流。

 早ければ1年、遅くとも3年以内にカリフォルニア・オレゴン・ワシントン州などアメリカ西海岸に漂着するということです。

 米海軍第7艦隊が発見して報告したものです。

太平洋を漂流中の「ガレキの島」

(米海軍第7艦隊撮影)

 東日本大震災の傷跡さえ海を越えて運んでしまう自然の力…驚嘆せずにはいられません。

 そう言えば…

 今から70年ほど前、この自然の力を利用して“人類初の大陸間弾道兵器”を立案し、それを実行に移した民族がありました。

 そう…それは他ならぬ、我ら“日本民族”でした。

 

1 幻の「ふ号兵器」

 毎年、8月15日の終戦記念日が近づくと、決まって福島県立博物館に展示されるものがあります。

 それは、太平洋戦争末期にアメリカ本土空襲を行うため開発された軍の秘密兵器「ふ号兵器」の“実物”です。

 「ふ号兵器」とは軍の秘密呼称(コードネーム)で実名は「気球爆弾」、戦後には「風船爆弾」と呼ばれました。

 これは、爆弾を括り付けた大量の気球を上空のジェット気流に乗せて太平洋を横断させ、直接、アメリカ本土空襲を行うという驚異の新兵器だったのです。

 実際、茨城県から打ち上げられた風船爆弾は、アメリカのオレゴン州まで、なんと7700キロメートルを飛翔して着弾。

 これは、人類史上、実戦に用いられた兵器として最長の攻撃到達距離。

 また、大陸を跨いで使用された人類初の大陸間弾道兵器でした。

風船爆弾

(Wikipediaより)

 秘密裏に開発され、太平洋戦争末期の1944年11月から翌45年4月まで千葉・茨城・福島の海岸から打ち上げられた風船爆弾は9300発。

 そのうち、アメリカで実際に確認されたのが361発。実際は約1000発が着弾したであろうと見る推計もあります。

 この謎の秘密兵器「風船爆弾」は、Wikipediaによれば…

『兵器の現物は日本国内に残存しないが、江戸東京博物館に5分の1模型があり、埼玉県平和資料館に7分の1模型が展示されている。

 国立科学博物館に非公開ながら、重要部品の風船爆弾の気圧計(高度保持装置)が保管されている。』

~とされています。

岸波(ただし、アメリカのスミソニアン博物館の保管庫には気球部分が保管。気圧計及び爆弾部分の気球下部部分の実物は国立航空宇宙博物館に展示されています。)

 ふ~む、“国内には残存しない”‥‥‥ん!!?

 存在しないはずの「風船爆弾」が、何故、福島県立博物館にあるのでしょう?

 それは…

 

2 二つの風船爆弾

 福島県立博物館がにある「風船爆弾」は、『気球部分の下半分』と高度調整のための『砂袋』の二つ。

 このうち『気球部分の下半分』は、福島県いわき市在住の鷺栄一郎氏の所蔵で、博物館が寄託を受けているもの。

 『砂袋』については、同市大平清氏から寄贈されたものです。

風船爆弾 の気球(下半分)

(福島県立博物館)

 鷺氏の父親は、いわき市錦町にあった呉羽化学工業の錦工場に勤務していて応召しました。

 戦後、復員して職場復帰した際に、錦工場に廃棄されていた直径約2メートルの気球を持ち帰ったということです。

 旧陸軍気球連隊が、錦工場近くの現いわき市勿来町から打ち上げていた「風船爆弾」は直径が10メートル。

 現物は、約4分の1の大きさしかありません。

 何故か?

 実は、陸軍の「風船爆弾」打ち上げ作戦とは別に、海軍も独自の「風船爆弾」作戦を遂行していたのです。

 『呉羽化学五十年史』によれば、呉羽化学工業の錦工場内には『相模海軍工廠(海軍直営の軍需工場)・錦作業所』が設置されていました。

 そこで生産されていた和紙(美濃紙)にポリビニルアルコールを吹き付けた小型気球は、潜水艦でアメリカ本土まで接近して放球する計画だったのです。

 大量に生産されましたが、作戦遂行前に終戦を迎えて廃棄され、“幻の兵器”となりました。

 福島博物館が寄託を受けたのは、この海軍用の小型気球で、現存する唯一の歴史資料です。

風船爆弾 の「砂袋」

(福島県立博物館)

 一方の『砂袋』は、大平氏の父親が、戦後、この袋を持参した人に頼まれて米と交換して入手したもの。

岸波(当時は、もう一つ小さいタイプの砂袋もあったと言います。)

 こちらも現存する唯一の現物として、極めて貴重な研究資料となっています。

 さて、話を戻しまして、実際にアメリカ本土を攻撃した(陸軍の)「風船爆弾」とはどんなものであったのか?

 気球の直径は前述のとおり10メートル、総重量は200キログラムで、15キロ爆弾1発と5キロ焼夷弾2発を装備。

 水素を入れて浮遊させる気球本体は、和紙をコンニャク糊で張り合わせただけのものでした。

 ええー!?

 こんな手作り兵器が太平洋を越えてアメリカ本土に着弾! …まさに冗談のようです。(コンニャク糊ですよ、コンニャク糊!)

風船爆弾

(福島県立博物館)

 この突飛な作戦に現実味を与えたのは、当時、高層気象台の台長であった大石和三郎氏らによる高層ジェット気流の発見でした。

 ジェット気流の“空中ハイウェイ”に乗せれば、約50時間(二昼夜)でアメリカ本土に到達できる!

 もちろん“無誘導”ですから、気球自体が高度を測定し、飛行距離を調整しなくてはなりません。

 この困難な技術をどうやって実現したか?…装備したのは、気圧計と砂袋二つとバラスト投下装置のみ。

 水素が抜けて高度が下がると、投下装置が麻紐を焼ききって砂袋を投下、これを二回繰り返せば、ちょうどアメリカ上空に到達…と、実に原始的な方法です。

 お金をかけず資源も使わず、こういうことを緻密な設計と微妙な手調整で実現してしまう日本人って本当に凄いと思いませんか。

 さて、問題はその戦果。

 報道管制によって秘匿されていましたが、実はこの「ふ号兵器」、アメリカ軍を恐怖のどん底に陥れていたのです。

 

3 犠牲者たち

 「ふ号兵器」によるアメリカ本土攻撃作戦の決行予定日は1944年11月3日の未明。

 千葉県(一ノ宮)、茨城県(大津)、福島県(勿来)の三箇所から一斉に放球を開始。この日は明治天皇の誕生日で、晴れの天候が多い「特異日」…のはずでした。

岸波(実際には土砂降りの雨でした。)

 その土砂降りの中で放球が強行されましたが、茨城県の大津基地では、誤爆が発生して兵士三名が犠牲となったため11月7日に延期されています。

誤爆した兵士を弔う鎮魂碑

(北茨城市)

 放球されてから二日後、アメリカ本土に着弾した風船爆弾は各地で山火事を発生させました。

 ワシントン州にあったプルトニウム製造工場の送電線に落ちて停電させた事件は、「原爆の製造を三日遅らせた」とも言われています。

岸波(影響していないという説もあり。)

 太平洋戦線で日本軍を追い落とそうとしていたアメリカは、意表を突かれた「本土攻撃」に狼狽します。

風船爆弾

←中央の写真には、実写で動員された女子学生と風船爆弾が。

 彼らが恐れたのは、風船爆弾の破壊力そのものではなく、“生物兵器”の搭載を懸念していたからでした。

 それによって本土被害が広がれば、国民の戦意そのものにも影響しかねないと危惧したのです。

 このため、アメリカ陸軍は不発弾の調査に当たる要員に防毒マスクなど対生物兵器用の装備を着用させたほか、徹底的な報道管制を敷いて「ふ号兵器」のことを国民に秘匿します。

 しかし、逆にそのことが悲劇を生む結果にもなりました。

 戦時中、「風船爆弾」による直接の人的被害は報告されていませんが、既に作戦が終了していた1945年の5月、正体を知らずに不発弾に触れたピクニック中の民間人6人が爆死したのです。

 引率の女性が1名に子供が5名・・・これが、太平洋戦争中、アメリカ本土で日本軍の攻撃により犠牲者が出た唯一のケースとなりました。

 また、生物兵器搭載の疑念が晴れないアメリカ軍は、次々に飛来する風船爆弾を撃ち落すに当たっても居住地から離れた場所で撃墜できるよう細心の注意を払わねばなりませんでした。

 さらには、日本軍が気球に乗り込んで本土に潜入する可能性も考慮しなくてはなりませんでした。

岸波(この作戦は、日本軍によって現実に検討されていました。)

 太平洋を越えて次々飛来する「ふ号兵器」は、アメリカ軍に多大な心理的プレッシャーを与えたのです。

風船爆弾の撃墜

←風船爆弾を撃墜するアメリカ軍 戦闘機のガンカメラ映像。

 結果、「風船爆弾」には、アメリカが恐れた生物兵器は影も形もありませんでした。

 逆に「何故」という疑問も沸いて来ます。「できなかった」のか、「やらなかった」のか?

 陸軍731部隊では、細菌兵器の研究を行っていたという説があります。また、風船爆弾を製造していた基地の一つ瀬戸内海の大久野島には毒ガスの研究施設がありました。

 でも、搭載しなかった。

 やろうとすればできたはず…。

 その方法を採らなかったのは卑怯な手段を嫌う日本人としての矜持か、はたまた全く別の理由によるものでしょうか。

 謎の解明は、後世の研究者に委ねたいと思います。

「風船爆弾」のキャプション

(福島県立博物館)

 和紙を貼り合わせる風船爆弾の製造には、動員された女子学生たちが当たりました。

 水素を扱う製造過程は死と隣り合わせの危険な作業で、事故で6名の死者が出ています。

 日本軍の秘密兵器「ふ号兵器」。

 放球時の誤爆事故による兵士3名を除けば、「ふ号兵器」による日本人の犠牲者は6名、そしてアメリカ人の犠牲者も6名‥‥‥全て女性と子供。

 守るべき者たちが犠牲となる。これは戦争の皮肉でしょうか。

 

/// end of the “その171 「風船爆弾の真実」” ///

 

《追伸》

 紙とコンニャクで作った最終決戦兵器「風船爆弾」…材料の点でも意外性があります。

 その意外性に驚かされたのはアメリカ軍も一緒で、不時着した風船爆弾の材質が「紙」であったことはすぐ分かったものの、それを貼り合わせた接着剤が何なのか特定することができなかったそうです。

 また、コンニャクを固める炭酸カルシウムは和紙の表面に穴を開けるので、代わりに水酸化ナトリウムが用いられました。

 この水酸化ナトリウムの化学作用のため、製造作業に携わった群馬県立前橋高等女学校の女子学生たちは、指紋が消えてしまったということです。

 さらに…

 風船爆弾製造のためにコンニャク芋が軍需物資となったため、おでん種からコンニャクが消えたのだそうです。(うむむむむ…)

 福島県立博物館における「風船爆弾」の展示(ポイント展)は、2011年は9月2日(金)まで公開しています。

 また、同時に「落下傘で作った着物」も展示していますので、こちらも必見です。

《追記》2017.8.23

 当初配信時、風船爆弾による犠牲者の数は「日本人の犠牲者6名、アメリカ人の犠牲者6名、全て女性と子供」としていましたが、8月20日に『すずき産地』サイト管理人さんからご指摘を受け、北茨城市の大津基地から放球しようとした風船爆弾の誤爆事故があり、兵士3人が犠牲になっていた事が分かりました。

 ついては、この誤爆事故の件、犠牲者の数について訂正をしています。『すずき産地』さま、大変ありがとうございました。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

落下傘で作った着物

(福島県立博物館)

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To be continued⇒“172”coming soon!

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