岸波通信その168「母へ贈る言葉」

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「想い出」 by (FANTASY MUSIC)
 

岸波通信その168
「母へ贈る言葉」

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  Words to give my mother   (2016.11.25改稿)当初配信:2011.4.11

「母の最後の言葉はみなさんへの感謝でした。」
  ・・・母の告別式にて

 喪主の岸波靖彦でございます。

 本日は、たいへんお忙しい中、亡き母世子のためご会葬いただきましてありがとうございます。

 最初にお詫びをしなければなりません。

 私の父、彦右エ門は、2月に三度目の手術入院をしてから寝たきりの状態になっており、また、妻のケイ子も4月初旬に倒れてから起き上がれる状態にありません。

 皆様に足をお運びいただきながら、近親者二名がここに列席できなかったこと、深くお詫びを申し上げます。

ローランサン「母と子」

 母の訃報を聞いたのは、4月5日の夜・・いいえ、12時を回っておりましたので、4月6日の午前零時過ぎでした。

 寝たきりの親父から会津のアパートにいる私に携帯の着信がありました。

 万一の時の緊急連絡にと番号を登録させておきましたが、実際に親父からかかってきたのは初めてでしたので、なにかこう・・厭な予感がいたしました。

 もしかして、父の身に何か・・・あるいは、福島へ返していたケイ子の身に何か・・・

 しかし、電話に出た父は、出ない声を振り絞りながら・・・

「ヤス、大変だ!かあちゃんが変なんだ。タスケテクレ・・」と。

 いったい何が起こっているのか、理解できませんでしたが、

「だいじょうぶだ、すぐに何とかする。少しだけ頑張ってくれ!」

 ~と言って、すぐに福島にいる弟やケイ子に電話を入れて向かわせました。

 ケイ子と佑樹が家に入ると、父のベッドの傍らで母がうずくまったままおりました。

 すぐに救急車を呼び、その指示で心臓マッサージをしたのですが、既に母は冷たくなっておりました。

 検視報告によりますと突然の脳梗塞であったらしく、既に死後4時間は経過していたとのこと。

 思い切り倒れたのではなく、うずくまるように床に伏したため、催眠剤を飲んでいる父には分からなかったのです。

ルノアール「母と子」

 母は、皆さんご承知のように、いつもニコニコして、どんなに厳しい状態にあっても「キツイ、辛い、大変だ」という言葉を聴いたことがありませんでした。

 でも、この半年というのは、母にとってとても厳しい半年であったと思います。

 去年の秋からから父の容態が思わしくなくなり、この冬は記録的な大雪に見舞われるなど寒く厳しい冬でした。

 そして、2月半ばには父が三度目の手術入院をすることになり、毎日のように病院通いをする母を襲ったのが今回の大震災です。

 震災後、病院から戻った父は弱って寝たきりとなり、電気もない、水道もとまる、食糧もガソリンもない・・・そこへ県北地域への放射能汚染がやってきました・・。

 気丈・・というよりも、何事にも意を介さない飄々とした母でしたが、さすがに、この半年のストレスは想像を絶するものであったに違いありません。

 そして、会津に勤務する私は、何もしてやることができませんでした。

 母は以前、クモ膜下出血を発病しています。

 生還率20パーセントとも言われますが、母の場合は、脳の左右数箇所の同時出血でした。

 この時には、父の献身的な看護が稔り、奇跡的に回復しました。

 母は「名前がラッキーだから助かった」と言っていました。

 母の名前のキヨコのキは、七を三つ重ねた文字。(「」)

 生まれたのが、昭和7年7月7日。

 ラッキーセブンなのです。

 母は自分の名前が大好きでした・・。

クリムト「母と子」

 一昨日から昨日、母の遺品を整理していましたら、母の手記が出てまいりました。

 おそらく、クモ膜下からの奇跡の生還の後、自分の人生を見つめなおしたのだと思います。

 そこには、自分が十人兄弟の長女として生まれたこと・・

 結婚後、少しでも貧しい暮らしの支えになればと、身に付けた洋裁の技術を生かして洋裁教授を始めたこと・・

 やがて、父と共にアパレル工場を始めたこと・・

 “貧乏ヒマなし”の喩えのように、寝る間も惜しんで仕事に勤しむ中、何度か授かった子供を過労のため次々と流してしまった悲しみなどが切々と綴られておりました。

 そして、母が手記には書いていない・・・書けなかったことがあります。

 その時、最も身近に居た私は知っています。

 工場が軌道に乗って数十年後・・・諸般の事情から、父と二人で育ててきた工場を廃業せねばならなくなった時です。

 母は、苦楽を共に下した従業員の皆さんや取引先の皆さんに、言葉では尽くせぬほどのご迷惑をおかけしたことで、大変苦しんでおりました。

 工場が人手に渡ることになった時、私が「さあ、かあちゃん、もう行くよ」と手を引いたのを振りほどき、いつまでもいつまでも工場を見上げていました。

 きっと・・・

 万感の想いが胸に去来していたのでしょう。

 母の手記の最後はこんなふうに締めくくられていました。

「私の名前はラッキーセブン。

 いろんなことがあったけれど・・・

 

 いつでもみんなに温かく支えられて・・・

 私の・・・

 

 人生は・・幸せ・・・でした」と・・・。

ピカソ「母と子」

 母の最後の言葉はみなさんへの感謝でした。

 私が亡き母になり代わりまして、生前、母が皆様からいただいたご厚誼に対し、心から感謝、御礼を申し上げます。

 皆様、本日は本当にありがとうございました。

 

/// end of the “その168 「母へ贈る言葉」” ///

 

《追伸》

 4月8日にお通夜、9日に告別式を終え、今日11日には初七日の法要を済ませました。

 あっという間の一週間でした。

 でも、不思議と号泣することはありませんでした。(武士の情け・・そういうことにしてください。)

 この大震災では、私の友人、知人、職場のメンバーも大きな被害を被り、親しい人たちを失いました。

 また、現在もなお、避難先で明日への希望を見出せぬ方々が大勢いらっしゃいます。

 そうした中で、既に私の涙は涸れ果てていました。

 母もまた、全国で失われた数千、数万の御霊の一つだと思います。

 彼らは、私たちに悲しみだけを残すために旅立ったのでしょうか。

 いいえ、きっと、東北の未来を私たちに託し・・・

 その礎となるために旅立ったのだと思います。 

 父のこと・・・

 家内のこと・・・

 避難者支援に頑張る仲間のこと・・・

 自らの病を押して葬儀に駆けつけてくれた友のこと・・・

 いろいろな想いに心は千々に乱れていますが、もう一度立ち上がらなければならないと思っています。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

いわさきちひろ「母の日」

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To be continued⇒“169”coming soon!

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