岸波通信その165「ラブミーテンダーの真実」

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Present by 葉羽
「Aura Lee」 by 音楽研究所
 

岸波通信その165
「ラブミーテンダーの真実」

1 キング・オブ・ロックンロール

2 傷心のエルヴィス

3 ラブミーテンダーの真実

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  Love Me Tender 【2017.2.5改稿】(2010.11.4配信)

「優しく愛して 甘く愛して 決して僕を放さないで」
  ・・・Love Me Tender(Presley/Matson)

 本日、11月3日の文化の日、現代日本を代表する二人の詩人吉増剛造さんと和合亮一を会津に招き、“会津・漆の芸術祭”の関連イベント「The vice of(漆)-会津にて-」が開催されました。

 お二人の対談の前に、吉増剛造さんの製作による映像作品が公開され、僕はそれに見入っていました。

 すると彼のカメラは、「漆掻き」の痛々しい傷に向かってどんどん接近して行くのです。

会津・漆の芸術祭

2010年10月2日(土)~11月23日(火)

 そしてこのBGMとして吉増氏が選んだ曲がエルヴィス・プレスリーの名曲「ラブミーテンダー」。

 その落差…日本固有の伝統文化“漆”を語るBGMがロックの帝王プレスリー?

 しかし、この曲でなければならない『理由』があったのです。

 

1 キング・オブ・ロックンロール

 “キング・オブ・ロックンロール”と称されるエルヴィス・アーロン・プレスリーは、「史上最も成功したソロ・アーティスト」としてギネスブックに登録されているほか、以下のような輝かしい記録を打ち立てました。

◆全米No.1シングル18曲(歴代2位)/全英18曲(歴代1位)

◆最も長時間No.1にエントリーしたアーティスト(80週)

◆最多ヒットシングル記録(ビルボード誌トップ100へのエントリー回数151回)

◆1日で最もレコードを売ったアーティスト(死の翌日1977年8月17日に2,000万枚以上の売り上げ)

 ~など。

エルヴィス・プレスリー

 そんなプレスリーは、1935年にミシシッピー州チューベロの貧しい家に双子として生まれました。(※双子の兄弟ジェシーは誕生時に死亡。)

 彼の4代前の祖母はチェロキー族のインディアンで、プレスリー自身はドイツ系ユダヤ人の血も引くという複雑な血筋でした。

 彼がデビューした1950年代のアメリカでは、まだ人種的偏見も根強く残っており、全く同じ曲を白人歌手が歌えば「カントリー&ウェスタン」と呼ばれ、黒人歌手が歌えば「R&B」と呼ばれた時代です。

 そのような時代にあって、多様な人種的感性を合わせ持ったプレスリーの歌声は、ラジオで聞く人々に黒人と誤解されるほどにソウルフルなものだったのです。

 プレスリーの同時代の人々は、彼の舞台をどのように見ていたでしょう?

 僕は彼のデビュー時の記憶はもちろんありませんので、1968年のカムバック時にモミアゲを伸ばしたスタイルで登場したのが最初のイメージです。

 体型もマッチョで、セクシーな腰の動きを伴って歌うパワフルなロック・シンガーという印象でした。

 “モミアゲ”はともかく、彼のシンギング・スタイルはデビュー当時からそのようなものだったようです。

 ピップを前後にセクシーに振りながら歌う彼は“Elvis the Pelvis(骨盤のエルヴィス)”と呼ばれ、当時の保守的な人々からは疎まれる存在でした。

骨盤のエルヴィス

 映画「フォレスト・ガンプ」には、フォレストの母親がテレビに映るプレスリーの姿を「子どもの見るものではない」と遮るシーンがありますが、それがその時代の“良識ある”アメリカ市民の空気だったのです。

 挙句に全米のPTAが、ロックンロール自体、青少年の非行の原因としてテレビ放送の禁止を申し入れ。

 ラジオでは、プレスリーのレコードを叩き割って「ロックンロールとは絶縁だ」と放送する事件まで起きました。

 彼は“良識ある”社会から、誹謗中傷のターゲットにされたてしまったのです。

 ならば、若者たちはどうであったか?

 社会の良識派の非難をよそに、強烈な黒人のビートと感情むき出しで歌う彼のスタイルは若者達に衝撃を与え、大いなる共感と熱狂を持って迎えられたのでした。

 

2 傷心のエルヴィス

 実はプレスリーは、そのパフォーマンスや歌唱スタイルに似合わず、とてもナイーブな性格でした。

 緊張しすぎて、最初のレコード会社サン・レコードの門を叩けずに入り口付近でウロウロしていたというエピソードや「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ。」という言葉が残されています。

 そんなプレスリーは、興行的成功を収めつつも轟々たる社会の批判を浴びながら、どのような気持ちでいたのでしょう。

エルヴィス・プレスリー

 マスコミ等による彼への非難が頂点に達したのは、1956年の「ミルトン・バール・ショー」で、“例のスタイル”で「ハウンド・ドッグ」を歌った翌日でした。

 その時、彼のバックコーラスを勤めたメンバーは次のように述懐しています。

◆レイ・ウォーカー

「実際皆から非難され、エルヴィスは泣いていたね。
 彼は教会で歌っていたように動いただけだった。」

◆ゴードン・ストーカー

「新聞や雑誌に下品と書かれ、エルヴィスは傷ついていた。
 彼は母親の前や母が見るテレビ放送で下品と言われることをするわけないと嘆いていた。」

 …そう、彼のパフォーマンスは意図してあざとい動きをしているのではなく、魂を込めて歌うための“自然に出てくるもの”だったのです。

 したがって、彼自身が尊敬してやまない母親の前でさえ“恥ずかしいものではない”と考えていました。

 それなのに…

エルヴィス・プレスリー

 傷心のエルヴィスは、それでも歌い続けることができました。

 その心の支えとなったのは、“エルヴィスに悩みがあれば夜中でも相談にのてくれた”という母グラディス・ラブ・スミス・プレスリーの存在であったことは間違いありません。

 そんな中、プレスリーの評価が一変する事件が起こります。

 1956年の「エド・サリバン・ショー」に出演したプレスリーは、母のグラディス・ラブが大好きだったという曲を歌います。

 彼の“スタイル”を捨て、温かい声で静かに… そして情感を込めて…

 『Love Me Tender』 (Presley/Matson)

Love me tender, love me sweet
Never let me go
You have made my life complete      
And I love you so

Love me tender, love me true
All my dreams fulfill
For my darlin', I love you
And I always will

エルヴィス・プレスリー

 この曲を聴いた聴衆はみな驚愕します。

「これがあのプレスリーの歌なのか!?」

 そしてその驚きや戸惑いは、彼の心を込めた歌唱が終わる頃には、すっかりと温かい感情へ変わり、誰しもの胸に染み入ったのです。

 

3 ラブミーテンダーの真実

「僕はあの曲を映画で聞いたんだ。」

 場面は戻り、吉増剛造氏が言います。

「あれはね、アメリカの南北戦争の時の歌なんだよ…」

詩人 吉増剛造

 この「ラブ・ミー・テンダー」の大ヒットを受けて、1956年に映画「Love Me Tender(邦題『やさしく愛して』)」が製作公開されました。

 もちろん、プレスリー自身も主演し、4兄弟の末弟クリントの役を演じています。

「婚約者を残して南北戦争に従軍した兄さん(ヴァンス)が故郷に帰って来るんだよ。
 でも全然音信が無くなってさ、家族はみんな戦死したと思っているワケ。

 婚約者は弟(クリント:プレスリー)と結婚しちゃっててサ。
 みんな驚く…そしてみんな傷つく。

 そんなどうしようもない中でプレスリーが心を込めて歌うのがラブ・ミー・テンダー。
 特別な歌なんだよ。」

 誰も悪者なんかいない。

 戦争が家族の運命を最も残酷な形で引き裂いてしまったのです。

 兄は全てを受け入れて、再び遠くへ旅立とうとするのですが…。

映画「やさしく愛して」

 そしてこの「ラブ・ミー・テンダー」、更に深い背景がありました。

 この曲の原曲は『オーラ・リー』という名前で、実際に南北戦争の時に北軍の兵士達が“故郷に残してきた恋人”を思いながら歌っていた愛の歌だったのです。

 作詞はウィリアム・ホワイトマン・フォスディック、作曲はジョージ・R・プルートンで、現在ではスタンダードなアメリカ民謡として歌い継がれています。

 『Aura Lee』

When the blackbird
in the spring
On the willow tree
Sat and rocked,
I Heard him sing
Singing Aura Lee

Aura Lee,Aura Lee
Maid of golden hair
Sunshine came along With thee
And swallows in the air.

 吉増剛造氏は、“漆掻き”によって満身創痍の姿に傷つけられた漆の木をまのあたりにし、アーティストとしての感性を揺さぶられたのでしょう。

 カメラはその深い傷跡を凝視し、それでも生命の輝きを失わない凛とした姿をゆっくりと見上げ、やがてその上空…縄文の太古から人と漆の営みを営々と見守ってきた「天」を仰観します。

 縄文の日本人と漆が出会い、西欧では『第三の価値』として、宝石、貴金属に並び称される至高の価値を生み出して行く。

 その奇蹟の原点と対峙し、それに相応しいメロディとして、青春の日に心揺さぶられた愛の歌「ラブ・ミー・テンダー」を重ね合わせたのでしょう。

 1977年8月16日、数々の名曲を残した伝説の“キング・オブ・ロックンロール”、エルヴィス・アーロン・プレスリー永眠。(享年42歳)

 

/// end of the “その165 「ラブ・ミー・テンダーの真実」” ///

 

《追伸》

 吉増剛造先生は言いました。

「パフォーマンスをする時、映像を撮る時にリハーサルなんかやっちゃダメ。」

 真っ白な気持ちで“初めて”取り組む時こそホンモノで、リハーサルなんかやってしまっては“ただなぞるだけの本番”になってしまうということです。

 この話に触れた時に、もう一方の対談者、現代詩の旗手と目される和合亮一さんが、かつて吉増先生に「朗読指南」を受けたときのエピソードを紹介してくれました。

 朗読をうまく行うコツを聞いたところ、吉増先生は即座に「緊張して声が震えるくらいがいい朗読」だと喝破されたそうです。

 本気で取り組む声のバイブレーションこそが聞き手の心に届くということ。

 …とても大事なことだと感じました。

 ところがっ!

 プレスリーについて調べていると、意外な事実に遭遇。

 歌のレコーディングに当たってプレスリーは、「何回かのテイクのいいところだけをつなぎ合わせる編集」や「曲と歌の別撮り」を嫌い、最後まで一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のレコーディング・スタイルにこだわったのだそうです。

 うーむ…これって、吉増先生のスタイルと一緒!

 洋の東西を問わず、達人の考えは共通するようで。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

オーラ・リー

(弦楽四重奏)

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To be continued⇒“166”coming soon!

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