岸波通信その160「手塚治虫スリル博士の真実」

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岸波通信その160
「手塚治虫スリル博士の真実」

1 少年サンデーの切り札

2 スリル博士 in 会津

3 スリル博士の真実

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  The truth of Dr.Thrill  【2016.9.4改稿】(当初配信:2009.8.14)

---1959年4月3日、“漫画の神様”会津若松に降臨。---

 20世紀の日本に生まれた一人の大天才、手塚治虫が漫画家としてデビューしたのは戦後間もない1946年のことでした。

 翌1947年に発表した「新宝島」が大ベストセラーとなって世の注目を浴び、「ロストワールド」、「ジャングル大帝」と次々にヒットを飛ばし、やがて1952年…

 もはや“伝説”と呼んでもいい日本漫画の金字塔「鉄腕アトム」が月刊『少年』誌上に連載開始。

 さらに翌1953年、畳みかけるように、月刊『少女クラブ』に「リボンの騎士」を連載。

鉄腕アトム

 この二作で、時の少年少女のハートを鷲づかみにして、手塚治虫の人気は不動のものとなるのです。

 以後、その生涯をかけて15万ページを超える膨大な作品群を残した“漫画の神様”手塚治虫。

 「日本に漫画があるのは、手塚治虫がいたからだ。」とさえ言われます。

 でも、そんな彼が“会津”と深い関わりを持っていたことはあまり知られていません。

 とうことで今回の通信は、偉大なる“漫画の神様”と“会津”の知られざる関係についてご紹介いたします。

 

1 少年サンデーの切り札

 漫画の大衆化がいっきに進展したのは、1959年に始まった『週刊漫画誌』の創刊によります。

 同年3月17日に小学館が『週刊少年サンデー』を創刊、同じ日に講談社も『週刊少年マガジン』を創刊いたしました。

 創刊号の表紙を飾ったのは、「サンデー」が読売巨人軍の長嶋茂雄、「マガジン」が大相撲の大関朝汐で、お互い一歩も譲らないガップリ四つ。

 そして発行価格は、「サンデー」の30円に対し「マガジン」が40円… (ん?)

 まず両社がプライドを賭けて争ったのは、“創刊号の売り上げ部数”でした。

週刊少年サンデー創刊号

(in 1959)

 「マガジン」は何故、あえて10円高い40円に設定したのか?

 その狙いは、月刊少年誌で成功した“付録”をつけて付加価値を高める戦略でした。

 これに対し「サンデー」側は、本誌だけの“内容”にこだわっての真っ向勝負。

 しかし…

 もしもライバル誌の「マガジン」が身を切って「30円定価」に切り下げてくれば、付録が無い分だけ劣勢は必死。

 そこで考えた「サンデー」側の戦略は、「マガジン」が定価40円のままで印刷に入るかどうかギリギリまで情報収集し、印刷をストップしておく事。

 相手の定価に変更なければそのまま印刷開始、変更があればこちらも切り下げを辞さずという丁々発止の舞台裏があったのです。

 結果として、両者とも当初計画通りの発行価格に設定し、売上げは「サンデー」が30万部、「マガジン」が20万部。

 初戦の軍配はサンデーに上がりました。

(挽回を期して、マガジンは第5号から30円に値下げした。)

週刊少年マガジン創刊号

(in 1959)

 価格設定でも、このような暗闘を繰り広げた両社ですが、問題は中身。

 どのような作家でラインナップを組めるかということは、長期的な販売競争に決定的な影響を及ぼします。

 ここでも「サンデー」が先手を打ちました。

 その秘策は、初代・サンデー編集長豊田亀市が号令した“漫画の神様”の囲い込み。

 人気絶頂の手塚治虫から独占契約を取り付け、以後、「少年サンデー」以外には執筆させないというものでした。

 当時の手塚治虫は月に7本の連載を抱え、その他に読みきりやグラビア特集の絵も描くという超・売れっ子。

 何と言っても、光文社の『月刊少年』に連載している国民的人気の「鉄腕アトム」まで辞めさせて、それら全てを補償する破格の専属ギャラを提示したのです。

(提示月額は、小学館の社長の給料よりも高かった。)

 そこまで覚悟を決めた小学館でしたが、この申し出はニベもなく却下されました。

 手塚治虫いわく…

「僕はお金うんぬんではなくて、作品をいろんな場所で描いていきたいんだ。」

 結果として、独占契約は成りませんでしたが、それでも当面の少年週刊誌バトルでは、サンデーだけに連載が決定。

 構想熟慮の上、手塚治虫がスタートを決めた作品が『スリル博士』です。

スリル博士

(手塚治虫)

 「アトム」のヒゲオヤジ(=スリル博士)を主人公とし、その息子のケン太と共に数々の難事件を解決していくコミカル・ミステリー。

 この作品こそが「サンデー」創刊の切り札であり、事実、ライバル誌の「マガジン」に圧倒的な差をつけながら快進撃を続けることになるのです。

 

2 スリル博士 in 会津

 この「スリル博士」がスタートして間もなく、第4話として制作されたのが「博士のノイローゼ」編でした。

 その舞台となったのは、会津若松市。

 しかも、現実の会津若松市の街並みや名所、店舗、そして実在の人物たちがモデルとなって登場するのです。

 こうしたケース、手塚作品では、後にも先にも全く例がありません。

 「少年サンデー」の命運を握る看板作品で、どうしてこのようなことが起きたのか?

 全15ページのこの「スリル博士」に登場する場所は、まずは、磐越西線から臨む会津磐梯山。

会津磐梯山

 そして、国鉄会津若松駅からサクラ満開の鶴ケ城、会津若松市の目抜き通り「神明通り」の自転車屋、アイスクリーム屋、銭湯、パチンコ屋、移動して東山温泉の温泉旅館、白虎隊の墓がある飯盛山、ケーブルカーがある背あぶり山など。

 会津名物の「赤ベコ」もさりげなく登場。

 もちろん、行った事がなければ描けるような内容ではありません。

 ならば、「何故」に会津なのか? そしてそれは「いつ」?

 まず「何故」ですが、時を遡る数年前、多くの連載を抱えて超多忙な日々が続く中、手塚氏のもとを尋ねた一人の青年がいました。

 彼の名は「笹川ひろし」。

 会津で漆器職人を生業としている青年でしたが、その趣味は漫画。

 同じ志を持つ仲間達と「会津漫画研究会」を組織し、自己研鑽する中で描き上げた118ページの自作漫画を携え、“神様”に批評を求めに行ったのです。

 作品を見終えた手塚氏が言った言葉は、思いもよらぬものでした。

「僕の所でアシスタントをやりませんか?」

笹川ひろし氏(アニメ監督)

←自身が制作したヤッターマンを背景に。

 腰を抜かすほど驚いた彼が、ようやく口にした言葉は…

「会津に、もっと人がいますから!」

 それまでアシスタントを取らず全て一人で作業をしていた手塚氏でしたが、その第一号アシスタントに…いえいえ、一挙に三人もの人間が「会津漫画研究会」から就くことになったのです。

(こうした縁で、会津から更にあと2人、計5人が採用されることになる。)

 この頃の手塚氏は、メンバーの会津弁に感化されて、手塚氏自身も「そうだべした」などと話していたといいます。

 こうして、手塚治虫+会津人材でチーム体制となった手塚漫画制作システムですが、その忙しさはいよいよ多忙を極める事になります。

手塚治虫氏

 そして、そんな時に手塚氏がよく行うのが「隠密行動」。

 平たく言えば、執筆中に現場を逃げ出すのです。

 締め切り待ちをしている編集者にとっては大変なことですが、手塚氏としても、どうしても必要な“息抜き”だったワケです。

 特に、「サンデー」の週刊連載も始まって心身の疲れも極まる中、どこか本当にゆったりできる場所…?

「なあ、ホラ笹川君…」

「え、オレ!! …じゃ会津?(ですか?)」

 

3 スリル博士の真実

 最初は手塚氏の冗談としか考えていなかった笹川氏やマネージャー。

 なにせ、隣の応接室には、原稿の上がりを待ちくたびれている各出版社の編集者たちが数名。

 しかし、手塚先生のさらに本気モードの意を受けた笹川氏は、極秘に地元の会津漫画研究会に手配を依頼。

 示し合わせて作業を抜け出した一行は、上野駅で待ち合わせ。

 ところが、出発時刻ギリギリになっても手塚氏は姿を見せない。

 あらららら…。

鶴ヶ城

 あせるメンバー、迫り来る時刻。

 真っ青になっているメンバーの前に現れた手塚氏、少しも慌てず、メンバーの座席を全て一等車へ変更したことを告げる。

 なんと素晴らしい心遣いではありませんか。

 あらゆる困難をかいくぐって到着した国鉄会津若松駅…1959年4月3日のことでした。

 待ち構えていたのは、会津漫画研究会の会長を務める白井義夫氏ほかの仲間達でした。

 こうして、会津漫画研究会の心からのオモテナシで、市内観光や名所案内、東山温泉原瀧別館への宿泊などがセットされたのですが、当然、会津の人間はそれだけでは終わりません。

 再度夕方の6時頃、昼の接待役だった自他共に許す「会津の飲んべの三悪人」と白井氏が宿を訪れると、何故かそこに居たのが、少年サンデーの担当編集者!

(「三悪人」は、ちょうど黒澤明の「隠し砦の三悪人」が上映されていたことからの自称。)

 しかし、あえて仔細は突き詰めず、その編集者や手塚氏、アシスタントの笹川氏らも一緒になって宴会を始めることに。

現在の旅館原瀧

(会津若松市東山温泉)

 もちろんこれは宵の口。

 その後、夜の街へと繰り出して、キャバレー、スナックを渡り歩き、最後の寿司屋に着いたのが午前2時!

 当然ながら、手塚氏は行く場所行く場所で大人気。

 次々とせがまれるまま、彼は嫌がりもせずに漫画やサインを大サービス…。

(醤油で色まで付けたそうです。)

 この日の手塚氏、実は風邪気味で微熱があったことなど、みんなの前ではおくびにも出しませんでした。

 何日もの徹夜に近い作業から抜け出し…

 長時間列車に揺られ…

 会津若松市をくまなく観光し…

 そして、息をつく間もなくなだれ込んだ宴会ロード…

 そんな中でも、一緒にいる仲間達への気遣いやファンサービスを忘れない心意気、手塚先生は人間的にも素晴らしい人物だと思います。

 しかし……

 本当に驚くべきは、この後の出来事でした。

現在の神明通り

(会津若松市)

 翌朝、手塚氏はアシスタントの二人に一通の封筒を渡します…

「大至急、これを東京に送ってくれ。」 

 その中に入っていたものこそ、スリル博士第4話「博士のノイローゼ」編でした。

 何と手塚氏は、皆との飲み会が引けた後、旅館の部屋で新作15ページを描き上げていたのです。

 しかも、その舞台は、その日始めて見た会津の情景そのままに。

 ページをめくれば、そこには白井氏や「三悪人」をモデルとした人物まで登場しているではありませんか!

 ……息を呑むアシスタント達。

 きっと最初から、会津をテーマにして描くことを決めていたのでしょう。

 さすが天才…そして努力の人。

 翌朝が締め切りだった「少年サンデー」の担当編集者がそこに居たのも、手塚氏自身がそっと明かしていたのではないかと思います。

 もしかすると隠密旅行自体、自分自身よりも、歯を食いしばって激務に耐えているアシスタント達に報いるためではなかったのか…?

スリル博士

(単行本版)

 こうして、誰も知らないエピソードを秘めたまま、スリル博士第4話「博士のノイローゼ」編は世に出ました。

 この回は、前後のストーリーを繋ぐ重要な部分であるため、『スリル博士』をダイジェストで紹介する際にも、決して省略できない話だそうです。

 世界に冠たる日本のポップ・カルチャー、漫画とアニメの礎を作った“漫画の神様”手塚治虫。

 計り知れない天才でありながら、決して他人への思い遣りを忘れない誠意の人。

 手塚氏は、この旅行で非常に会津が好きになり、この後でも二回訪れています。

 うち一回は、手塚氏自身が家族に会津を案内するためのものでした。

 偉大な彼の業績の一端に“会津”という土地や人との出会いがあったのだとしたら…

 それは、とても素敵なことだと思います。

 

/// end of the “その160 「手塚治虫スリル博士の真実」” ///

 

《追伸》

 手塚治虫が会津を訪れた当時、会津若松市には係累を失った子供達を養育する孤児院「会津児童園」がありました。

 手塚氏は、スリル博士の原稿を送り出した後、こう言いました。

「この街にも孤児院があるでしょう?そこで漫画教室をやりましょう!」と。

 身寄りの無い子供達にも夢や希望を与えるために自ら一役買って出る…彼はそういう人物でした。

 福島県立博物館では、8月15日(土)から「会津とマンガ文化-アニメ監督・笹川ひろしの原点-」と題して特集展を開催します。

 もちろん、この笹川ひろしさんは手塚氏の第一号アシスタントで、後にタツノコ・プロでヤッターマンなどを制作した人気アニメ監督。

 その展示の中で、今回取り上げた手塚氏のスリル博士第4話の現物(復刻版)を手に取って読むことも可能です。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

会津とマンガ文化
-アニメ監督・笹川ひろしの原点-

特集展 in 福島県立博物館

(C)笹川ひろし

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To be continued⇒“161”coming soon!

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