岸波通信その158「小彼岸桜の真実」

<Prev | Next>
Present by 葉羽
「Please Don't Go」 by Blue Piano Man
 

岸波通信その158
「小彼岸桜の真実」

1 高遠小彼岸桜

2 拒絶

3 小彼岸桜の下で

NAVIGATIONへ

 

  The truth of Prunus subhirtella 【2017.11.12改稿】(当初配信:2009.5.4)

「人生に無駄なものはひとつもない。試練は必要だからこそ与えられるものだと気付く時、人は以前よりも深みのある人生を送ることができ、以前よりも優しくなれそうな気がする。」
  ・・・橋本先輩の人生ノート」より

 4月に住み慣れた福島市を離れ、会津若松市へ転勤でやって来ました。

 そして、夫婦で初めて福島市以外に住むことになった僕らを、博物館の満開の桜が迎えてくれました。

県立博物館の小彼岸桜

(会津若松市)

 前にも書いたように、子供の頃の僕は、桜という花がそれほど好きなわけではありませんでした。

 美しいかどうかよりも、その季節になれば、日本中のマスコミがこぞって桜の話で持ちきりになるし、大人たちはそれにカコつけてお酒を飲もうとするし、正直“またか”という気持ちにしかなれませんでした。

 なので、日本をあげた「桜狂想曲」は、ありきたりな“年中行事”にしか感じられなかったのです。

 しかし…

 以前の通信「桜伝説」で書いた、“桜の花びらのピンク色は桜の樹液の色”ということを知ったことで考え方が変わりました。

 桜の木は、春先のほんのひと時の命を燃やすために、厳しい冬の間、じっとピンク色の樹液を溜め込んでいたのです。

 “その純粋な命のきらめきを、素直に愛でてあげようではないか”

 もはや、他の人の思惑は関係ありません。

 たった一人の自分と桜とが向き合う季節…今では、それが楽しみになりました。

   

 

1 高遠小彼岸桜

 会津若松市にある県立博物館には、36本の桜の木が植えられています。

 今年は暖かだったので開花も早いとは思っていましたが、4月10日(金)の朝に三分咲きった博物館の桜が、お昼に外へ出てみたら満開に!

 隣の鶴ケ城の桜はまだほころび始めたくらいでしたから、ここの桜だけが特に早咲きのようです。

いきなり満開!

(会津若松市)

 調べてみますと、これにはワケがありまして、博物館の桜はもともと会津にあった桜ではなく、長野県の高遠町(現在は合併によって伊那市高遠町)から貰い受けた別種なのです。

 一般に知られる樹種はソメイヨシノ。

 これに対し、博物館の桜は小彼岸桜(コヒガンザクラ)と言って、花が小ぶりでピンク色が濃い樹種です。

 会津の名君としても知られる保科正行公は、もともと高遠藩主から移ってきた人物。

 その縁もあるのだから、快く寄贈されたのだろう…さもあらん。

 ところが!!

 この桜が、ここに至るまでには、二人の人物の苦労と涙のエピソードがあったのです。

県立博物館の小彼岸桜

(会津若松市)

 福島県立博物館は、昭和61年に鶴ケ城三の丸跡地に整備されました。

 秀吉に仕え、加藤清正らとともに「賎ヶ岳七本槍」と称された加藤嘉明が城主だった17世紀前半までは、鶴ケ城の大手口(正門)はこの三の丸側でした。

 明治41年に若松聯隊が設置された時に錬兵場として整地されたために鶴ケ城三の丸は消滅し、その跡地に博物館が建設されたというワケです。

 その建設に当り、保科公ゆかりの高遠小彼岸桜を熱望したのが時の松平勇雄知事。

 しかし、小彼岸桜は“門外不出の桜”とされていることが分かり、交渉は困難なものになると予想されました。

 その大任を仰せつかったのが、庁内で最も樹木に通じているとされた濱須篤義氏。

 果たして彼が、博物館開館に待ったなしとなった昭和59年5月、技師二名を伴って高遠町を訪れますと?

   

 

2 拒絶

「あのような不義理な県に、由緒ある門外不出の小彼岸桜を差し上げることは出来ない。」

 高遠町の役場を訪れた濱須氏を待っていたのは、町長の面談拒絶という意外なまでに冷淡な反応でした。

 “不義理”??

 どうして、そのようなことになったのか?

 実は、当時の高遠町の北原町長は、昭和40年に再建された鶴ケ城の落成記念式典に小彼岸桜を持参し、手ずから植栽していたのです。

 ところが…

鶴ケ城

(会津若松市)

 12年後、再び町長が会津若松市を訪れた時、そのことを知る者は、既に会津若松市に誰もいなかったのです。

 途方に暮れた北原町長は、それでも丸一日を費やしてようやく植樹の場所を探し出し、手入れをして帰って来たのでした。

 何ということを…

 その落胆はいかばかりであったか。

 好意が踏みにじられることほど悲しいことはありません。

 一方、町長との面談自体を拒絶された濱須氏は知事の直命を受けているのですから、このままでは帰るに帰れません。

 彼もまた途方に暮れながら、とりあえずは保科家菩提寺をお参りし、小彼岸桜の名所である“高遠城址公園”をつぶさに見て廻ることにしました。

 いったいどうしたものか…

 すると、技師である彼は、この土地の土壌が非常に肥沃であることに気づいたのです。

 そうか、この桜が美しい秘密はこの土壌にあったのだ。

 彼は立ち止まると、意を決したように…

「まずは鶴ケ城内の植栽予定地を、この城址公園と同等以上の土壌にしてから子彼岸桜をお迎えしなければならない。」

 安易に、遠い昔の縁を頼って大切なものを貰い受けようと考えたこと自体、間違いであった。

 まず示すべきは心からの誠意。

 それが受け入れられるかどうかは、結果論に過ぎない。

 濱須氏は、同行してくれた高遠町の職員に自分の考えを伝えました。

 まずは、この城址公園の土壌を貰い受けて分析し、その土質と同等以上の土を探し出して、植栽予定地の土壌改良を行いたいと。

 すべては、それから… 考えれば、気が遠くなる作業です。

 既に終わっている造成工事もやり直さねばなりません。

 そんなことが出来るのか…いや、やらねばならない。

 濱須氏は、土壌採取の許可をもらうと、城址公園の土を荷物に詰め始めました。

 北原町長の無念を思いやりながら、黙々と… そして黙々と…

高遠城址公園の小彼岸桜

(伊那市高遠町)

 その夕方、“せめて礼だけでも尽くさねば”と、もう一度役場に立ち寄ることにしました。

 すると、そこで濱須氏を待ち受ける人物がいました。

 それは、北原町長、その人でした。

「今朝ほどの前言は取り消します。

 当地に由縁ある数多くの地域から桜の分与の要望がありますが、君のような行為をとられた人は、私の知る限り未だおりません。

 桜の苗木の要望は29本と聞きましたが、枯損のことも考えられるので、その時再来訪されることのないよう、36本を差し上げる。」…と。

 なんて、すがすがしい態度でしょう。

 労苦を知る者が、同じく労苦をいとわぬ者の心意気に感じ入ったのです。

 その言葉を耳にした濱須氏、どれだけ嬉しかったことか…。

県立博物館の小彼岸桜

(会津若松市)

 約束したことはやらねばなりません。

 濱須氏は帰庁後、貰い受けた土壌の分析を行い、新鶴町の山林に同じ土質を探し当てました。

 ただ、既に造成が完了していた博物館植栽地の再造成には、予算的なもの、工期的なもの、幾多の困難がありました。

 しかし、それさえも克服し、再造成が行われたのです。

 現在、県立博物館の小彼岸桜は、小ぶりで色の濃い美しい姿で訪れる人々の心を和ませています。濱須氏の労苦、そして北原町長の好意は報われたのです。

 この話には、さらに後日談があります。

 退職された濱須氏が、2005年に高遠町を訪れると、その町長室には、彼が贈った土壌分析表が大切に保管されていました。

 分析表はそのエピソードとともに職員に伝承され、今では、その分析表に基づいて高遠小彼岸桜の保護育成がなされているというのです。

 現在、その町長室に座っていた人物…あの日、濱須氏の苦悩と決断をまのあたりにした役場の職員、伊藤産業課長でした。

 こうして、36本の小彼岸桜は、高遠町と会津若松市を結ぶかけがえのない絆となりました。

   

 

3 小彼岸桜の下で

 4月第二週の週末は、一足早く満開になった博物館の桜を見ようと、市内の人々が大勢足を運んできました。

 写メを構える人、ワイワイと談笑しながら歩くカップル、家族連れ、近所の子供達。

 僕も見物客に混ざって歩いていたのですが、ふと気づくと車椅子を押すおじいさんが…。

車椅子を押すおじいさん

(福島県立博物館)

 車椅子にはおばあさんが乗っています。

 きっと夫婦なのでしょう。

 おじいさん自身も足が不自由ならしく、少し進んでは一休み。

 二人で桜を見上げては、また、ゆっくりと歩き出します。

 思わず、離れたところからカメラでパシャッと…うん、いい風景じゃないか。

 そして追い越そうとする時に、見るともなく二人の方を見ますと…

 このおばあさんは、目にいっぱい涙をためているのです。

 瞬間、“見てはいけないものを見てしまった”と感じて、早歩きで去ったのですが…

 “でも、悲しみの涙じゃなかったな”

 何だか僕は、急に胸がいっぱいになりまして…二人を見送ってから、手帳に書き留めたのが次の詩です。

桜に涙するおばあさん

(福島県立博物館)

  小彼岸桜の下で  (詩:葉羽)

 満開の桜の下
 車椅子を押して おじいさんが進む

 おばあさんの
 涙の理由(わけ)は 分からないけれど

 その可憐な 花びらの
 なんて素敵な 淡い花色

 博物館の小彼岸桜
 今年もきれいな 花を付けました

 三歩進んでは 立ち止まり
 空を見上げては また歩きだす

 あんなふうに二人
 年老いて行けたなら 本当にいいね

花びらが敷き詰められた舗道

(福島県立博物館)

 はかなくも美しい小彼岸桜…

 これからも、見る人の心に様々な物語を生んで行くのでしょう。

 

/// end of the “その158 「小彼岸桜の真実」” ///

 

《追伸》

 現在、博物館では「直江兼続と会津の戦国武将」の特集展を開催して、多くのお客様にお越しいただいています。

 兼続の主君である上杉景勝は、1598年から三年間会津城主だったのですが、その石高は何と120万石。

 展示されたその当時の版図を見ますと、浜通りの一部などを除くほぼ福島県全域に加え、新潟県・山形県・宮城県にまたがる巨大な領地を治めていたことが分かりました。

 全国でも三本の指に入る大領主(徳川家以外)だったのです。

 僅か三年という短い治世のため、本県にとっては馴染みの薄い人物であったかもしれませんが、会津での築城工事・治水工事にも成果を残しており、改めて偉大な人物であったことを心に刻んでいます。

 また、彼から約30年後に会津城主となった「賎ヶ岳七本槍」の勇将加藤嘉明については、『虫喰南蛮』のエピソードが有名です。

 ある時、家来の一人が、嘉明自慢の茶器コレクションである「虫喰南蛮」という小皿を割ってしまったのです。

 これは元々10枚セットの組皿、その一枚が割れてしまえば全体の価値が下がってしまいます。

 嘉明は、恐れおののく家来を前に、残り9枚の皿を持ってこさせるや否や一枚残らず叩きつけて割ってしまったのです。

 そして…

「決して怒って残りの皿を割ったのではない。

 器物を愛するあまり、家来に粗忽者の汚名を着せ、残りの皿が持ち出されるたびに、いついつ誰々が一枚を割ったのだとなじられるのは私の欲するところではない。

 物を愛しすぎた私こそが悪いのだ」と。

 うーん、深い。会津は名君が多いな。

 ということで、最後の一枚は季節代わって真冬の福島県立博物館。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

冬の県立博物館

(会津若松市)

管理人「葉羽」宛のメールは habane8@ybb.ne.jp まで! 
Give the author your feedback, your comments + thoughts are always greatly appreciated.

To be continued⇒“159”coming soon!

HOMENAVIGATION岸波通信(TOP)INDEX

【岸波通信その158「小彼岸桜の真実」】2017.11.12改稿

 

PAGE TOP


岸波通信バナー  Copyright(C) Habane. All Rights Reserved.