岸波通信その154「幸福の王子の真実」

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岸波通信その154
「幸福の王子の真実」

1 「幸福の王子」

2 「幸福の王子」の背景

3 オスカーの栄光と挫折

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  The Happy Prince  (2016.7.18改稿)当初配信:2008.8.15

「すべての女性は彼女の母親に似るようになる。それが女の悲劇だ。
 男は彼の母親のままにならない。それが男の悲劇だ。」
  ・・・オスカー・ワイルド『嘘から出たまこと』より

 辛辣で洒脱で毒舌家として知られるオスカー・ワイルド…でも、そんな彼が著した童話「幸福の王子」は、今も世界中の子供たちに感動を与え続けています。

 いったい、このギャップはどこから来るのでしょう?

オスカー・ワイルド

 最近、ショーン・コネリーが主演した映画「リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い」を見ました。

 H.R.ハガードの「ソロモン王の洞窟」の主人公であるクォーターメイン博士(ショーン・コネリー)やH.G.ウェルズの「透明人間」など、時空を超えた怪人同盟が世界の危機に挑むと言う…まあ、B級映画でしょう。

 しかし、そこにアメコミの原作にはいない“ドリアン・グレイ”が加わっていたのです。

 そう言えば、彼もまたオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」の主人公。

 「幸福の王子」とは全く違う傾向の作品ですね。

 このように、いろいろな側面を持ったヴィクトリア朝末期の文豪オスカー・ワイルド…その実像はどのような人物だったのでしょうか?

 

1 「幸福の王子」

 オスカー・ワイルドによって「幸福の王子」が発表されたのは1888年、彼が34歳の時でした。

 「幸福の王子とその他の物語」という童話集の一編として書かれたもので、これを小学校低学年の時に読んだ僕は、子供心にも悲しくて涙が止まりませんでした。

幸福の王子とその他の物語

(原著)

 あらすじを簡単にご紹介しますと…

「幸福の王子」(要約) 作:オスカー・ワイルド

 幸せいっぱいに育った王子が死んでしまい、王様は王子の像を町の真ん中に作りました。

 その両目には青いサファイア、腰の剣には真っ赤なルビーがはめ込まれ、体は金色に輝いている美しい王子の像は町の人々の自慢でした。

 そこにやって来た一羽のツバメが王子の足元に羽を休めると、雨も降っていないのに、水滴が落ちてきます。

 それは、像の王子が流した大粒の涙でした。

 「どうして泣いているんですか」とツバメがたずねると、「あそこに可愛そうな婦人がいる。病気の子供を助けようとしているが、川の水しか与えられるものが無くてとても悲しんでいる。どうか、この剣のルビーをあの婦人に届けてくれないか」と。

 ツバメがルビーを届けると、今度は両目のサファイアを、貧しい劇作家と幼いマッチ売りの少女にと・・。

 「そんなことをしたら、あなたは何も見えなくなってしまいます。」

 でも、ツバメは王子の強い願いを聞き入れ、目の見えなくなった王子にいろいろな話を聞かせます。

 その度に王子は、自分の体を覆う純金をはがして持って行って欲しいと頼みました。

 やがて冬になり、みすぼらしい姿になった王子の傍でツバメも弱ってきました。

 ツバメは最後の力をふりしぼって王子にキスをすると、その足元に落ちて死んでしまいます。

 町の人たちは、王子の像がみすぼらしくなったのを見て、こんなものはおいて置けないと壊してしまいます。

 最後に、溶鉱炉で溶け残った王子の鉛の心臓は、死んだツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられてしまいました。

 しかし、天の神様は見ていました。

 「町の中で最も貴いものを二つ持ってきなさい」と天使の一人に命じ、王子の心臓とツバメを天に引き上げるのでした。

(要約:岸波)

 ~という、とても悲しい物語です。

 特に、困っている人々を自分の身を犠牲にしながら助けた王子とツバメに対して、「汚らしいから」と壊されてしまう仕打ちにいたたまれない思いを感じましたが、最後に神様に認められたところで癒されました。

※全文を読みたい方のために、結城浩氏の訳文を別ページで掲載します。

◆オスカー・ワイルド作「幸福の王子」全文 ⇒

「幸福の王子」日本語版(小野忠男:訳)

←イラストは井上ゆかり。

 ところで、全訳を見ると分かるように「王子」は徹頭徹尾、純粋な善意の人ですが、ツバメはそうではありません。

 それは「悪意」という意味ではなく、自分自身の都合も考えたり、“何もそこまでしなくとも”と諌めたりする、ごく普通の感覚を持った存在なのです。

 それが、王子の善意に動かされ、最後には自分を犠牲にするところまで変わってしまうのです。

 こういう実社会の感覚が残されている不思議な童話…この違和感は何でしょう?

 これは、オスカー・ワイルドがどういう状況で書いた作品なのか、検証してみなくてはなりますまい。

 

2 「幸福の王子」の背景

 オスカー・ワイルドは、1854年にアイルランドのダブリン市で生まれました。

 父親はヴィクトリア女王の目の手術をしたこともある著名な外科医で、母親は熱心なアイルランド愛国者、他にオスカーの兄と妹の5人家族でした。

 オスカーが12歳の時、仲がよかった妹イゾラが病死し、そのことにショックを受けた彼は、妹の遺髪を封筒に入れると、一生涯手放すことはなかったと言われています。

 学生時代のオスカーは、数学など科学系の教科を好まず、もっぱら詩やギリシャ古典に興味を示す文学青年でした。

 トリニティ・カレッジの卒論で書いた「ギリシャ喜劇詩の断章」が、大学で最高の古典学賞であるバークレー・ゴールドメダルを受賞したり、その後オックスフォード大学で書いた「ラヴェンナ」の詩が最高栄誉賞であるニューディギット賞を受賞したりと、その才能は大きく花開いて行きます。

トリニティ・カレッジ

(in ダブリン)

←オスカーが卒業した学校。

 しかし、オックスフォード在学中の20歳の時に売春婦から梅毒をうつされ、以後、彼の人生に暗い影を落とすことになります。

 また、22歳の時には父ウィリアムが亡くなり、24歳で卒業した翌年に劇作家を目指してロンドンへと移ります。

 そこで初めて書き上げた戯曲「ヴェラ」は公演直前でキャンセルされ、失意のオスカーは心機一転、今度は北米で一旗揚げようと考えます。

 そうして渡ったアメリカとカナダでは、学生から鉱員までを相手に実に一年間で約70回の講演をこなし、聴衆からの評判はよかったものの批評家からは全く相手にされませんでした。

 その後も書いた戯曲は失敗続き…Oh, my GOD!

映画「オスカー・ワイルド」(1997年)

←オーランド・ブルームの映画初出演作品

 生活は困窮し、遂にはバークレー・ゴールド・メダルを質屋に出さねばならないほどひっぱくするのです。

 何をやってもうまくいかないオスカー…しかし、宿病である梅毒は治療が効を奏して快復した(と本人は信じた)折りに、運命の女性と巡り合います。

 それは、オスカーが30歳の時。

 公演中に知り合ったアイルランドの弁護士の娘コンスタンス・メアリー・ロイドです。

 オスカーは彼女と結ばれ、二人の間には長男シリルと次男ヴィヴィアンが相次いで授かりました。

~コンスタンス・メアリー・ワイルドの生涯~
「オスカー・ワイルドの妻」

(アン・クラーク・アモール:著)

 やっと運が上向いてくるか…

 と思ったその矢先、オスカーは自分の梅毒が再び進行し始めたことを知るのです。

 失意につぐ失意…彼は自分の人生を呪ったことでしょう。

 この時オスカーは32歳。

 運命の糸はもつれ始め、後に生涯の友人となる17歳の少年ロバート・ロスが彼の前に現れます。

 ロスは、オスカーが同性愛関係を結んだ最初の人物と言われ、年少時からオスカーの詩に心酔し、そのことで仲間からいじめられても自分の主張を貫き通した少年でした。

(オスカーの死後は、遺著管理者に指名されている。)

 以後、オスカーは自分の梅毒のこともあり、妻と接することは無くなり同性愛ひとすじの道を歩むようになります。

 そして二年後…

 こんな状況の中で、オスカーが34歳の時に書いたのが「幸福の王子」なのです。

~オスカー・ワイルド童話集~
幸福の王子

(井村君江:訳)

 おそらく、本人は不幸のどん底…ではなかったでしょうか。

 そう考えると、「幸福の王子」に別の意味が見えてきます。

 自分の宝(才能)を用いた講演や執筆は、何人かの人々の心には響くものの社会全体としては評価されない。

 それを繰り返すうちに、文字通り“身も心も”ボロボロになり、「汚らしいから」という理由で葬られようとしている。

(梅毒で身体が崩れて行くことに対して相当な恐怖もあったでしょう。)

 そんな王子(オスカー)をただ一人、我が身も省みずに支えたツバメこそロバート・ロスではありますまいか?

映画「オスカー・ワイルド」

(1997年)

←主演スティーヴン・フライ、ロス役はジュード・ロウ。

 そして、その先に…

 “神の救い”を渇望していた者こそ、当のオスカーではなかったのか?

 …僕は、そんな風に思うのです。

 

3 オスカーの栄光と挫折

 ところが…運命の女神は、オスカーの“止まった時計”を大きく動かします。

 「幸福の王子」発表の翌年、オスカーの性嗜好の変化を初めてうかがわせる作品「WH氏の肖像」(1889年)を発表。

(シェイクスピアの「ソネット」は、若い男性への愛情を歌ったものだと主張。)

 翌1890年には、後に名著の誉れ高い「ドリアン・グレイの肖像」のオリジナル版を雑誌掲載。

 そして、劇作家として最初の成功作品となる「ウィンダミア卿夫人の扇」が1892年に上演されると、またたく間に大評判となり、初講演で巨額の報奨金を手に入れるのです。

映画「理想の女」

(2004年)

←オスカーの戯曲「ウィンダミア卿夫人の扇」 を
1930年のイタリア社交界に舞台を移して映画化。

 以後、「サロメ」、「なんでもない女」、「理想の夫」、「真面目が肝心」とスーパーヒットを連発し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。

 「理想の夫」を観たバーナード・ショーは、“ワイルド氏は私にとって、唯一のシリアスな劇作家である。彼はすべてを手玉に取ることができるのだ・・・ウィット、哲学、ドラマ、俳優、観客、劇場すべてをも」と絶賛し、オスカーの名声は不動のものとなりました。

 しかし…

 1890年代に突如として花開いたオスカーの絶頂期の陰で、もう一つの事件が進行していたのです。

 1891年、ワイルドはアルフレッド・ダグラス卿と親密な関係となり、その同性愛に激怒した父親のクリーンズベリー侯爵と極めて険悪な状況になりました。

 業を煮やした愛人のダグラス卿からそそのかされ、オスカーはクイーンズベリー侯爵を名誉毀損で訴え出たのです。

 しかし、いざ裁判になると、私立探偵を雇っていた侯爵から、逆にオスカーが複数の男性と性的関係を持っている証拠を突きつけられ、窮地に追い込まれます。

オスカー・ワイルド

 当局は、オスカーを「男性との猥褻行為を犯した罪」で逮捕、有罪判決を受けて投獄されます。

 それは、1892年に「ウィンダミア卿夫人の扇」が大ブレイクしてから僅か三年後、1895年のことでした。

 二年間に及ぶ過酷な獄中生活はオスカーの健康を確実に蝕み、1897年に出獄してから最後の三年間は、偽名を使って社会を避けながら無一文の惨めな生活を送りました。

 そして、1900年の11月30日、髄膜炎で帰らぬ人となるのです。

 この死因には諸説あり、梅毒が原因とする者、病院で受けた手術が原因とする者など様々ですが定かではありません。

 また、オスカーが失脚した後、妻のコンスタンスは子供達とともに別の苗字を名乗り、別れて生活していましたが、1898年に病気で亡くなりました。

オスカー・ワイルドの墓

(ペール=ラシェーズ墓地)

←パリにあるこの奇妙な墓は
今も訪れる人が絶えない。

 最後に…事実上オスカーの生涯の伴侶であったロバート・ロスはどうなったのか?

 彼は、オスカーから託された膨大な獄中書簡に自ら序文を書き加え、1905年に「獄中記」として出版しました。

 オスカーが投獄された後は、彼自身も心身ともにボロボロであったと思います。

 何故なら、その原因が“オスカーの不貞”であったわけですから。

 それにも関わらず、オスカーが最後に頼ったのはやはりロスでした。

 そう思うと、ロスが「獄中記」に自ら書いた序文とは、まさに、ツバメが最後の力を振り絞って行った“王子へのキス”ではなかったかと思えて来るのです。

 1918年10月5日、ロスは自宅アパートでひっそりと亡くなりました。享年49歳でした。

 その遺灰は、オスカーの墓に埋葬されたとのことです…。

 

/// end of the “その154 「幸福の王子の真実」” ///

 

《追伸》

 オスカーの作で繰り返し映画化されている作品に「ドリアン・グレイの肖像」があります。

「ドリアン・グレイの肖像」(要約) 作:オスカー・ワイルド

 美貌の青年ドリアン・グレイは、その美しさから「輝ける青春」とあだ名されるほどで、ある画家が彼の美を永遠に残そうと、肖像画を描きます。

 ドリアンは悪い友人の影響で快楽と背徳の生活を重ねるのですが、何年経っても美しさが衰えません。

 ところが不思議なことに、肖像画の方が彼のすさんだ生活そのままに醜く変化するのです。

 ついにドリアンは、ある天才女優をもて遊び、彼女を自殺にまで追い込みます。

 すると、肖像画の顔は見るもおぞましいほど、邪悪で残忍な表情に変わってしまったのです。

 恐ろしくなったドリアンは、この忌まわしい絵を抹殺しようと決意するのですが…。

(要約:岸波)

 ~オスカーの研究者によりますと、この主人公ドリアン・グレイは、オスカー自身を投影した人物と見なされるそうです。

 そうかも知れませんが、むしろ僕は、ギリシャ古典のおどろおどろしい因果応報世界を描いた作品のような気がします。

 どちらかというと、今回書いたように「幸福の王子」の方に自己投影を強く感じるのですが…。

 ロバート・ロスはカナダの生まれで、その祖父はカナダ首相、父親は法務大臣でした。

 すごい名家の出だったんですね。

 ロスの死後、彼が所有していたオスカーの著作物はオスカーの次男であるヴィヴィアンに渡されました。

 ヴィヴィアンの子(オスカーの孫)マーリンと、その子(ひ孫)ルシアンは、現在も存命で、家の苗字を再び“ワイルド”に戻すことを検討しているそうです。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

「スフィンクス」初版本

オスカー・ワイルド作
~限定200部~

(チャールズ・リケッツ:挿絵)

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To be continued⇒“155”coming soon!

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【岸波通信その154「幸福の王子の真実」】2016.7.18改稿

 

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