岸波通信その146「戦場の医師」

<Prev | Next>
Present by 葉羽
「扉」 by 桑山紀彦
 

岸波通信その146
「戦場の医師」

1 地球のステージ

2 人生を変えた出会い

3 心の扉

NAVIGATIONへ

 

  The Stage on the Earth  (2017.1.9改稿)当初配信:2007.9.15

「春は来るもの そう信じれば気持ちは晴れてく
 とけぬ雪などありはしないと 誰か信じさせて。」
  ・・・桑山紀彦『扉』より

 桑山紀彦医師からサインをいただいて感激している葉羽です。

 去る9月8日の土曜日に、福島市飯坂町のパルセ飯坂で開催された「地球のステージ2」に、息子の佑樹ら若者たち3名とともに行ってまいりました。

 何と、入場料無料!

 で、今回初めて「地球のステージ」を観ることになった2名、息子と同い年の茉莉さんと中学二年生の璃菜ちゃんに、「地球のステージ」とは何か、を説明するのが大変でした。

「地球のステージ2」会場

(パルセ飯坂)

 何故かと言えば、講演でもなければコンサートでも無く、映画でも無いのにそれら全てがあるという「地球のステージ」ならではのスタイルだからです。

 そこで、次のような説明をすることにしました。

岸波葉羽

『今日、トークをする桑山先生は山形県のお医者さんで、簡単に言えば戦場の医師。世界で戦争があると、真っ先に駆けつけて医療活動をするボランティアのお医者さんなんだ。

 戦争の現場に居ると、目の前でたくさんの人が死んでいく。また、助けようとした子供が死んでしまい、絶望して逃げ出したくなる時もある。

 先生は、そういう体験を歌にして、語り聞かせる活動をやっているのさ。そんな映像と音楽を織り交ぜたトーク・コンサートが“地球のステージ”なんだよ。』~と。

 ということで、今回の通信では、僕が心を打たれた桑山先生のエピソードについてご紹介したいと思います。

 

1 地球のステージ 

 桑山先生は、AMDA(アジア医師連絡協議会)などのNPO法人に所属し、これまで海外50カ国以上の地域において国際医療救援活動を行ってきました。

 戦場の真実を伝えるライブ音楽と大画面映像の「地球のステージ」活動は、国内の勤務地である山形県を中心に、1996年1月からスタートしました。

 口コミで感動が広がり、全国の学校から招かれたりして、既に1000回以上実施されました。

開演前の挨拶

(パルセ飯坂)

←実行委員長は福大生。

 僕が地球のステージと最初に出会ったのは、二本松市にある青年海外協力隊訓練所で開催された「地球のステージ1」で、当時高校生だった息子と家内の三人で行きました。

 「若い時には対人恐怖症で、ボランティアなんか関係ない世界だと思っていた」と語る桑山先生の意外な発言に、いきなり引き込まれたものです。

 そして、彼の作る曲のメロディ・ラインの美しさやギターの弾き語りで歌う声の美しさに魅了されてしまいました。

 事情を知らずに聞いた人がいたとしたら、彼のことをシンガー・ソングライターだと思うに違いありません。

 歌詞の深さとメロディの美しさは僕の尊敬するさだまさしさんに、歌声と歌唱力はオフコースの小田和正さんに決して引けはとらないのですから。

茉莉と佑樹

(パルセ飯坂)

←大ホール入り口で。

 「ステージ1」の話は、彼が医師になる前のインド、ケニアなどへの「放浪篇」に始まり、その後、フィリピン、ソマリア、東ティモールなど貧困・紛争地域の人々とのふれ合いが語られます。

 そうなのです…。

 僕は、てっきり“紛争地域の悲惨さや人々の飢えと貧困”をテーマにした重い内容だと勘違いしていました。

 しかし、コンサートを聴き進むと、勘違いしているのは“話の内容”でなく、“紛争地域の現状”そのものだったことを思い知らされます。

 紛争地域の人々、そして子供たちは、誰もが暗い表情で生活している訳ではなかったのです。

 紛争下にあるケニアの女性たちの、けして豪華ではないけれど、精一杯着飾ってお化粧した明るい笑顔…。

 サッカーに興じる親を亡くした子供たちのたくましい笑顔…。

演奏中の桑山先生

(地球のステージ)

←映像に合わせたライブ演奏。

 現場の真実を知らないと言うことは恐ろしいことです。

 悲しんでなんかられない。

 死と向き合わせの毎日だからこそ、精一杯生きようとする明るさに溢れていたのです。

 

2 人生を変えた出会い

 彼は“ボランティアなどに全く興味がなかった”はずなのに、何故、戦場の医師への道を歩んだのでしょう?

 彼の学生時代、自分の人生に悩みながら訪れたチベットのある丘から世界の最高峰エベレストを臨んだ時、こう言われたそうです。

 「お前はホントツイてるよ、この丘からエベレストが見られるなんて年に三回くらいのもんだ」と。

 そこで彼が思ったのは、「ツイてるついでに、世界五大陸の最高峰をこの目で見ることを人生の目標にしよう」ということでした。

 そして放浪が始まり、アフリカのキリマンジャロ、ヨーロッパのモンブラン、北米のマッキンリー…遂には南米のアコンカグアに達したのです。

南米アコンカグア山(アルゼンチン)

←アンデス山脈最高峰。

 しかし!

 人生の目標を達成した彼の心に訪れたのは、達成感ではなく深い絶望でした。

 もともと、人生の意味を見失って出た放浪の旅…五大陸最高峰を見終わった瞬間に、彼の人生の目標は全て失われてしまったのです。

 そんな傷心の彼が帰国し、次に訪れたのがフィリピンでした。

 “往復3万8千円”・・・これなら自分でも行ける、マニラの夕陽でも見に行こうと軽い気持ちで出かけたフィリピンで、彼の人生を大きく変える出来事が起こります。

 それは、ロエナスという一人の少女との出会いでした。

 ロエナスは、当時9歳くらいで、マニラの全ての生ゴミが投棄されて山になっている通称“スモーキー・マウンテン”で生活している少女でした。

 悪臭が鼻を突くスモーキー・マウンテンでゴミ拾いをしている汚らしい少女から「お金を頂戴」と言われ、困った彼は「お金はあげられないけど、代わりにこれをあげる」と言って差し出したのが風船でした。

 お金でも食べ物でもないそんなものをあげれば、きっと嫌われると思って差し出したのですが、彼女の反応は思わぬものでした。

「サラマーッ!(ありがとう)」と大喜びで笑顔を返してきたのです。

 うれしくなって話を聞いてみると、ロエナスのお父さんは戦争で死んでしまって、おばあちゃんや兄弟たち8人で物乞いをしながら暮らしていることが分りました。

 最後に、ロエナスが「私のうちに来る?」というので、彼は行ってみることにしたのです。

ロエナス(左)と風船

(フィリピン)

 ロエナスが「自分のうち」と言った場所は、何と堤防が壊れてあいた大きな穴だったのです。

 扉もなければ窓もない、そんな中に8人が折り重なるように住んで、奥には病気で目を真っ赤に腫らしたおばあちゃんがいました。

 「これはひどい目の病気だ」と直感した彼は、目ヤニをふき取って目薬を差してやり、「これを一週間ほどさすとよくなると思うよ」と言って自分の目薬をあげたのです。

 すると、そのおばあちゃんは、目から大粒の涙をボロボロとこぼしながら、彼の手を握って何度もありがとうを言うのです。

 そのことに彼は大きなショックを受けました。

 お金が無くて病院にも行けない人が、たった一つの目薬にこんなに感謝をしてくれる…。

 そして、思い起こせば、自分はアジアの人々にずいぶん助けられて来たのに、自分からしてあげられることは何一つして来なかった…。

 自分はなんて恥ずかしい人間なんだ。  

 この出会いが、彼を放浪の旅から足を洗わせ、NGO活動や国際医療ボランティアの道に進ませた大きな転機になったのです。

 

3 心の扉

 「地球のステージ1」では、この放浪篇のあと、戦火のソマリアや東ティモールでの医療活動について語られます。

 そして、僕らが今回聴いた「地球のステージ2~国境を越えて~」では、地雷原の真っ只中での医療活動、カンボジア篇、街が地震で消えたイラン篇、民族紛争のパレスチナ篇などが紹介されます。

 その最後に紹介されたのが、同じく民族紛争で戦火の傷が生々しい旧ユーゴスラビアでのアリッサという少女との出会いです。

 1990年代、旧ユーゴスラビアを構成していた6つの共和国は独立を目指して互いに銃口を向け合うようになりました。

旧ユーゴスラビアの地図

(東欧)

 アリッサは、6歳の時にそのお母さん、お姉さんとともに侵攻してきた敵軍に捕らえられ、倉庫の中に閉じ込められて4ヶ月もの間、凄まじい拷問を加えられました。

 やがて味方によって助け出された時には、ショックのために言葉を失っていたのです。

 アリッサが母親に連れられて、「サイコ・トラウマセンター」の桑山医師を訪れたのはそんな状態のときでした。

 桑山医師らの努力の甲斐も空しく、アリッサは誰にも心を開こうとはしませんでした。

 そうして二年が過ぎた頃、彼は大きな間違いに気づいたと言います。

「しゃべれない、ということを問題にしすぎなのではないか。」

アリッサが住んだ町

(ブコバル)

←壁の銃痕が痛々しい。

 それから、彼は、アリッサに絵を描くことを勧めました。

 そして、一つの約束事を決めました。

「何を書いても、決して質問をしないようにしよう。」

 質問することは、しゃべることを強制することに繋がるからです。

 だから、彼はいつも「今日は絵を描いてくれてありがとう!また来週も描こうね!」と言いました。

戦車を見つめる子どもたち

(旧ユーゴスラビア)

←「地球のステージ」のスライドより。

 アリッサはもともと絵心があったらしく、毎週、一生懸命に絵を描き始めました。

 最初は、心の不安だけを線にしたような絵、父親の入った棺の絵など陰鬱な絵でしたが、次第に自然や風景など奥行きのある絵に変わって行ったのです。

 そんな風に、アリッサの小さな心の扉が開かれ始めた12歳の頃、桑山先生は、悲しい事を彼女に告げねばなりませんでした。

「アリッサ。僕と君はしばらく会えないかもしれないんだ。」

 ここでの仕事を一区切りつけなければならない時期が巡ってきたのです。

 すると、アリッサは少し待っててというしぐさをして一枚の絵を描いてきました。

 そこに描いてあったのは、心に矢が突き刺さった絵…その絵には何と!

「SRCE RAM ENO MOJE(私の傷ついた心)」という文字が初めて記されていたのです。

 彼は驚きました。

 一人の少女がたった6歳で心に大きな傷を持ち、そして6年をかけて言葉を取り戻そうとするきっかけを目にすることができたのです。

 でも、彼は、質問をしない約束を守るためにこう言いました。

「アリッサ、今日は一生の宝物をもらったよ。また今度会ったら絵を描いてね。」

SRCE RAM ENO MOJE

(私の傷ついた心)

←アリッサの描いた絵。

 桑山先生は、ステージでは、それ以上語りませんでしたが、僕には分ります。

 彼がどんなにうれしかったか。

 涙が溢れそうになったか…。

 そんな、彼がアリッサのために作った曲が次の「扉」です。

「扉」  (詞・曲 桑山紀彦)

 うまれた故郷 萌える街路樹を
 いつくしみ育てた人も 今はいない
 あの日思い出は アルバムの中で
 密やかに音も立てず 終わりを告げた

 春を待ちわび冬を耐えれば やがて陽は昇る
 秋の枯葉に想いを寄せて 冬は訪れる

 扉の向こうに 何があるのかを
 知ることの不安と期待 胸はゆれる
 探し始めたら 崩れ落ちそうな
 思いだけが残りそうで ふるえる心

 春は来るもの そう信じれば気持ちは晴れてく
 とけぬ雪などありはしないと 誰か信じさせて

 夢よ希望よ私の声よ いつの日か戻れ
 心の扉 開くその日を 信じて生きる

 愛する人と 心の歌を
 恥じることなく 歌える日まで

 それから更に10年…桑山医師と再会を果たしたアリッサは、とても美しい女性に成長していました。

 一部の通信読者の方はご存知のように、以前、僕自身も公的な国際協力活動に従事していましたので、このエピソードには感無量でした。

映画:地球のステージ
「ありがとうの物語」

(2008年1月公開)

 戦場での真実を、決して気負いもせず、優しい言葉と美しい曲で僕たちに語ってくれる戦場の医師。

 この小さな「通信」でも、折に触れて先生の活動をご紹介し、ささやかですが応援をさせていただきたいと思っています。

 

/// end of the “その146 「戦場の医師」” ///

 

《追伸》

「地球のステージ」はバージョンを重ね、現在「その4」までがあるそうです。

 その活動は、Website「地球のステージ」に詳しく紹介されています。

◆「NPO法人地球のステージ」

>>http://e-stageone.org/

 福島県の公演は、直近では、10月14日にいわき明星大学で開催予定です。

【地球のステージ エンディング・クレジット】

 戦争や飢えにさいなまれても
 子どもたちは
 明るさを失わず、生きています
 けれど1日約8万人の子どもが
 戦争や飢えで亡くなっています

 子どもがすくすくと育つ世界を
 私たちは願ってやみません

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

映画:地球のステージ「ありがとうの物語」

(2008年1月公開)

管理人「葉羽」宛のメールは habane8@ybb.ne.jp まで! 
Give the author your feedback, your comments + thoughts are always greatly appreciated.

To be continued⇒“147”coming soon!

HOMENAVIGATION岸波通信(TOP)INDEX

【岸波通信その146「戦場の医師」】2017.1.9改稿

 

PAGE TOP


岸波通信バナー  Copyright(C) Habane. All Rights Reserved.