歴史をさかのぼれば、もともと日本における職人の地位が低いはずもなく、正倉院や宮廷や城などの建築物を造ったり、飾り職人のように技巧を凝らした装飾品を作ったり、切れ味鋭い刀剣を鍛えたりと、誇り高い仕事でした。
職人や技能者に対する奇妙な評価が行われるようになったのは、高学歴を至上価値とする戦後教育と人間が機械に使われる“大量生産”という名の技術革新ではありますまいか。
しかし、大量生産の工業技術は、わが国では既に過去のものです。
ここ三十年で、アジア諸国は確実に日本をキャッチ・アップし、モノづくりは今や熾烈な国際競争のさなかにあります。
量産型の技術は“世界の工場”を自認する中国などアジア諸国に中心が移り、日本はより高度な加工技術に特化して行くしか道はありません。
資源を持たないわが国が“国富”を獲得するためには、誇りを持った若い「高度技能者」を育成して行かなければならないのです。
それにもかかわらず、どうして日本の親は子供を大学に進ませようとするのか。
答えは簡単です。
わが子に勉強をさせ、「いい学校」に進ませ、その結果として「いい仕事」(ホワイト・カラー等)に就き易くさせるという考え方~“シングル・ピラミッドの檻”に捉われているのです。
職業は進学の結果ではなく、最初に目標としての職業があるべきです。
そして、目指すべき職業の数だけ、そこに至るまでの多様な教育訓練の道筋があってもいいはずです。