戦争体験の無い世代にとって、戦時下、ましてや逃げ場の無い被爆体験というものを想像する事は困難でしょう。
そんな我々に対し、この松尾あつゆき氏の残した俳句集「原爆句抄」は、まさに現場からの生々しい体験を突きつけて来ます。
彼は、長崎での学生時代から自由律俳句の荻原井泉水に師事し、俳句誌「層雲」の同人として活躍した人物です。
そして、長崎商業学校の教諭から食糧営団に移り、そこでの勤務中に運命の8月9日を迎えたのです。
「原爆句抄」 松尾あつゆき
◆八月九日 長崎の原子爆弾の日。
我家に帰り着きたるは深更なり。
◆十日 路傍に妻とニ児を発見す。
重傷の妻より子の最後をきく(四歳と一歳)。
◆長男ついに壕中に死す(中学一年)。
自身も被爆しながら、家族を探そうと自宅に向かいますが、我が家のあった場所に辿り着いたのは既に深夜。
もしや瓦礫の下にいるのではと考えますが、そこにも家族の姿は見つけることができません。
ようやく翌日になってから、道端にうずくまる妻と、その傍らに二人の幼な子の亡骸を発見します。
その重傷の妻から、二人の子供たちのいまわの際を聞くと、ようやく笑う事を覚えたばかりの赤子が、死に臨んで一生懸命笑おうとしたこと・・・その子に与えるものとて無く、路傍の木の枝を咥えさせて「うまかとばい、さとうきびばい」と言ったことを聞きます。
そして、壕の中にいた瀕死の状態の中学一年の長男に末期の水を探しに行こうとすると、長男は壕から母の許まで這い出てきて、にっこりしながら力尽きました。
母の傍で死んでいける安堵だったのでしょうか、これを自分の身に置き換えて我が子らがそうであったらと考えると、胸がはり裂けそうです。
◆十一日 みずから木を組みて子を焼く。
◆十二日 早暁骨を拾う。
◆十三日 妻死す(三十六歳)。
◆十五日 妻を焼く、終戦の詔下る。
僅か7ヶ月の命であった子供の骨を“花びらのような”と詠った表現に心を打たれます。
その子らを瓦礫を集めて火葬にし、遺骨を枕元に置いた時の情景が冒頭の句です。
しかし、その翌日には妻も帰らぬ人となりました。
こうして、松尾あつゆき氏は4人の家族を失い、手元に残されたのは“四枚の爆死証明”だけでした。