岸波通信その114「小さきは小さきままに」

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Present by 葉羽
憂世淵(うきよがぶち)」 by Moon Light Garden
 

岸波通信その114
「小さきは小さきままに」

1 映画「しいのみ学園」

2 行政との闘い

3 37回の鐘がなる

4 小さきは小さきままに

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  As it is.  【2016.11.26改稿】(当初配信:2004.8.20)

「僕の手はまだ動く。 始業時間に鐘を鳴らすことができるから、この学園の用務員に雇って欲しいんだ。 これは…僕の名刺です。」
  ・・・しいのみ学園小使い 曻地有道

 こんにちは。余生を迎えたら“悠々自適”の生活に憧れていた葉羽です。

 ところが、ふと手にした「サライ」に…

「“定年後は余生”などと言いますが、人生に余りがあるはずないんです。」

~という言葉を見つけ、自分の“浅はかな考え”に恥じ入りました。

 そう語ったのは、文学・医学・哲学・教育学の四つの博士号を持ち、五つの外国語を自由に操る人物でした。

 しかも、韓国語の勉強を始めたのは63歳を過ぎてから。そして、彼が中国語を始めたのは…何と95歳を過ぎてからなのです。

曻地三郎先生

(「しいのみ学園」園長)

←「ワンダフル・サードエイジ」授賞式で。

 その人物の名は、曻地(しょうち)三郎先生、当年とって99歳。

 “生涯現役”を座右の銘とし、現在、世界最長老の現役教育学博士と呼ばれています。

 また、曻地先生は、日本で初めて重複障害児の教育施設「しいのみ学園」を設立した人物としても知られています。

 その学園の設立から、来年で、はや半世紀。

 この間、5000種類の手作り教材を考案したり、新しい教育原理を生み出したりしながら、500名の卒業生を世に送り出して来ました。

 しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

 というわけで、今回の通信は、曻地三郎先生とその家族による“夢への挑戦”の軌跡を追います。

◆曻地(しょうち)三郎先生のプロフィール◆

・小学校、女学校、師範学校の教師を経て、長男、次男の脳性小児麻痺をきっかけに、昭和29年、しいのみ学園を設立。

・重複障害児との生活の中から新しい教育原理を生み、ユニークな治療教育の方法を確立する。

・現在、「しいのみ学園」理事長兼園長、福岡教育大学名誉教授、韓国大邱大学教授兼大学院長、長春大学名誉教授及び特殊教育研究所顧問。(99歳)


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1 映画「しいのみ学園」

 かつて、名監督の誉れ高い清水宏がメガホンをとった「しいのみ学園」(昭和30年)という映画がありました。

 当時はまだ、小児麻痺の子供たちが差別を受けていた頃で、受け入れる施設も法制度もなく、いったん発病すれば治療法も無かった時代です。

 医者から見捨てられた子供たちを抱えた主人公の教授は、「科学に限界はあるが,愛情に限界はない」という信念から、私財を投げ打って生活教育施設を立ち上げます。映画「しいのみ学園」は、そんなシーンから始まりました。

映画の舞台となった伊豆長岡

(城山山頂から望む)

 僕は、この映画のことは知りませんでしたが、学校教育の一環として、生徒にこの映画を見せた学校もあったということで、多くの人々に感銘を与えた映画だったようです。

 しかし一方で、この「しいのみ学園」が実話であったことは、あまり知られていなかったようです。

◆母ちゃんに国境はない◆ (水間摩遊美)〔ポリオ生ワクチンひとくち基金代表〕

 ・・・高校生活の中でも、どうやって一人で生きていくのか、答えはなかなか見えません。

 そんな時、フィクションと思っていた「しいのみ学園」が実在することを知ります。小学校の時に映画で見た学園。二年生の春、福岡市にある学園を訪ね、約束もないのに、創設者の曻地三郎先生はにこやかに迎えてくれました。「遊んでいきなさい」。先生の言葉は今も覚えています。

 学園で会った脳性まひや知的障害の子どもたちを前に、話すことも、歩くこともできる私は何かに気づいたんですね。今まで見えていなかった世界が見えた、とでも言うのでしょうか。そして、ずっと彼らと一緒にいよう、先生になろう、と思うようになりました。

(2004年5月27日「熊本日日新聞」朝刊から)

高校時代の水間氏

←彼女自身もポリオ(小児麻痺)でした。

 この水間さんの話のとおり、「しいのみ学園」は、曻地先生が立ち上げた重複障害児施設を題材にした映画だったのです。

 昭和12年、曻地先生の1歳の息子有道君が脳性小児麻痺に罹り、医者からも見離された夫妻は、「この子を必ず歩かせる」という一念で歩行訓練を続け、5歳の時には歩けるまでに回復させました。

 ところが学齢に達しても、障害児ということで小学校への入学が許可されませんでした。

 しかも…2年間の就学猶予期間を経てやっと入学した学校には、イジメが待っていたのです。

 現在であれば、しばしば新聞の社会面を騒がせるイジメ問題ですが、幸いにしてそうした経験が無かった僕にとっては、正直、この時代のイジメというものに実感が湧きません。

 しかし、有道君は中学校の時に学校の2階から落とされ、前歯を8本も折ったということですから、そのイジメは凄まじいものだったのでしょう。

 夫妻は「もう学校に行かせることはない」と、有道君を自主退学をさせ、自分たちでイジメのない学校を作ろうと決心します。

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2 行政との闘い

 昭和29年、夫妻の私財を投じた「しいのみ学園」は竣工し、認可を受けるために行政との協議を進めました。

 しかし、脳性麻痺の不就学児童に身体の治療と訓練をしながら学校教育を行うという「しいのみ学園」は、まだ文部省の養護学校令が法制化されていなかったため、県の教育委員会では、とり合ってもくれませんでした。

 また、厚生省の肢体不自由児施設は「病院形式」であることが前提とされ、学校教育を行うことは認められませんでした。

 さらに、同じ厚生省の精神薄弱児施設では、知的障害の子供たちに生活訓練・作業訓練を行うことが目的とされていましたので、肢体不自由を伴う子供の入所は認めらず、学校教育を行うことも許されませんでした。

 つまり、脳性麻痺のように、知的障害と身体障害を併せ持つ最も重い重複障害児は、法制度上、どこにも行き所がなかったのです。

 法制度というものは、社会の成熟に伴って少しずつ作り上げられるものですから、戦後10年に満たないこの時期では、悲しいことですがやむを得ないことであったと思います。

「しいのみ学園」正門

 ともあれ夫妻は、精神薄弱児施設としての認可を先行させることにし、昭和29年の4月1日に認可を得て「しいのみ学園」がスタートします。

 最初の入園者は12人。

 そうした子供たちを抱えた親にとっては、まさに暗闇に光を見出した想いで、この施設に子供を入園させたことでしょう。

 しいのみ学園は、この期待に応え、心理学と医学を取り入れた独創的な「小集団活動療法」を行って、重度心身障害児たちの心と身体をぐんぐんと成長させていきました。

◆「しいのみ学園」の名前について◆ (曻地三郎)

 私は当初、『福岡治療教育学園』という名前を考えていたのですが、妻が“子供が読めない名前はダメでしょうって。

 そのとき、妻の手に大宰府で拾った椎の実がありました。

 そうだ、小さな椎の実は、人や獣に踏みつけられながらも、水と太陽の光があれば必ず芽をだすじゃないかと、その願いを込めて付けたのです。

 しかし一年後、県の監査が入って「しいのみ学園」の認可は取り消しになります。

 “やはり”というべきか、“来るべきものが来た”というか…結局行政というものは“法”によってしか動くことはできないのです。

「精神薄弱児施設は生活指導をするところなのに、教育を行っている。」

「創立後182万円の共同募金の配分を3教室と職員室のために使った。精神薄弱児施設に教室は不用だから、黒板をはずして畳を敷き居室にせよ。」

「保母は10人に1人の比率なのに3人置いているのは法律違反だ。」

「福岡県の施設に他見の児童を入所させているのも法律違反だ。」

~と言うのが行政側の言い分です。 

 激しい応酬となり、思わず、曻地先生は啖呵を切ってしまう…。

「ならば、私は法を守らない。子供たちを守る!」

学園の子供たちと

 結局、認可は取り消され、182万円(当時のお金です)の共同募金は没収、もう明日からは一切の措置費も補助金も出ない…。

 事の重大さに気が付いた時には、その冷徹な事実だけが目の前にありました。

「後援会を作って会費を集めては」と、知人に提案され、心が揺れそうにもなりました。

 しかし、その時、曻地先生を諌めたのは、またも奥さんでした。

「障害児を自立させるための施設が、人様のおカネを当てにしていたら自立じゃないでしょう!182万円は私が即日支払います。お金のことは心配しないでください!」

 うむぅ…“烈婦”というか何というか。

 しかもこの奥さんは、本当にそうしてしまったのです。

 実家の反対を押し切って結婚し、小児麻痺の子を持ったことで親戚からも白い目で見られた彼女が、どのような想いで実家に頭を下げに行ったのかは想像に余りあります。

 ともかくも、こうして「しいのみ学園」の子供たちは守られました。

書籍「しいのみ学園」

(株)梓書院


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3 37回の鐘が鳴る

 その後、23年間の長きに渡り、財産を切り売りしながら無認可の施設を維持する日々が続きました。

 その間、「しいのみ学園」を卒業した子供たちは88人。うち4人が大学を卒業し、1人は和歌山大学の講師となりました。

 また、8人が結婚し、息子を東大に行かせた家庭もありました。

 夫妻の労苦は、大きな花を咲かせたのです。

ビデオ「しいのみ学園」

 そんなある日のこと…長男の有道君は、17歳の誕生を迎えると意外な事を言い出しました。

 彼が、夫妻に差し出した紙切れにはこう書いてありました。

「しいのみ学園小使い 曻地有道」

 そして、言いました。

「僕の手はまだ動く。始業時間に鐘を鳴らすことができるから、この学園の用務員に雇って欲しいんだ。これは…僕の名刺です。」

 うーむ…きっと夫妻は、言葉に詰まったに違いないと思うのです。

 この子のためにと頑張って来た当の息子が、今度は自分たちを助けたいと言うのですから。

ご夫妻と有道

 「しいのみ学園」には、始業・終業を告げる鐘楼がありました。

 晴れて“しいのみ学園小使い”となった有道君は、毎朝、この鐘楼に登り、鐘を鳴らすのが日課となりました。

 当時、「しいのみ学園」には、37人の子供たちが通ってきていました。

 ところが、ある日彼は、時を告げる鐘を鳴らすのをやめたのです。

 その代わり…

 今度は、通ってくる子供たちの一人ひとりが不自由な身体で歩いてくるのを見つめながら、一つ一つ、ゆっくりと鐘を鳴らすことにしたのです。

 彼は、その理由を問い詰めるスタッフに、こう答えました。

「だって、僕が早く鳴らし終わったら、その生徒が遅刻になるでしょう?」

 有道君は、37回目の鐘を、最後の子供が門に入った時に鳴らしました。

 もう「しいのみ学園」には、遅刻で叱られる子供はいなくなりました。

 こうして、“しいのみ学園小使い”である有道君は、自分の仕事に誇りを持ちながら、22年間、鐘を鳴らし続けました。

 その彼も、39歳の時に帰らぬ人となりました。

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4 小さきは小さきままに

◆小さきは小さきままに◆ (曻地三郎)

 長男の有道は,「しいのみ学園小使」という肩書きの名刺を持って学園の鐘を鳴らしていましたが、 39歳でこの世を去りました。

 親戚の反対を押し切って嫁いできた私の妻も83歳でこの世を去りました。

 郷里の先祖の墓に納骨する際,学園の椎の木から落ちていた椎の実一粒を「おまえの一生はこの椎の実だったね」と骨壷の中に入れてやりました。

小さきは小さきままに

折れたるは折れたるままに

コスモスの花咲く

 私が詠んだ和歌の一つですが、一言でいえば、それが学園の教育理念です。

 昭和54年からは養護学校の義務制がスタートしたため、「しいのみ学園」は入所者を養護学校に移し、養護学校就学前の知的障害児の通園施設に切り替えました。

 そして、「しいのみ学園」半世紀で500人の卒業生が巣立って行きました。

 現在、養護学校は全国600校を数えるまでに整備され、曻地先生は、今度は海外の同じ境遇の子供たちを救うために、韓国と中国の養護教育研究に参画することにしました。

 その一つ、長春大学では、来月(9月)に中国初の知的障害者特殊学級「しいのみクラス」が設置されることになっています。

「しいのみクラス」が設置予定の
長春大学

(右は提唱者の韓岡覚芸術学院長)

 曻地先生が、その長春大学の名誉教授の辞令を手渡された際、中国語で挨拶をすると会場から喝采が起こったそうです。

 そして学院長は、間もなく100歳を迎えようという曻地先生に対し…

「曻地先生、これからも末永くご指導をお願いいたします。」

 さすが、4000年の悠久の歴史の国! 何て素敵な言葉だろう。

 曻地先生、これからも我々の道しるべとなってください。

 

/// end of the“その114「小さきは小さきままに」” ///

 

《追伸》

 昔から「三つ子の魂 百まで」と言うように、最近の研究では子供が三歳になる頃に、脳細胞をネットワークするニューロンが一気に成長することが分かってきました。

◆三歳児教育学について◆ (島 史雄) (元九大脳神経外科助教授・現貝塚病院)

 2才から3才にかけては、脳医学的視点でみると、脳神経細胞ニューロンが急激に発達する時期です。4才になるとその発達は止まります。

 この分野の研究は、近年急に盛んになりました。随分色々な事が判ってきました。

 教育者や医学者が、2才~3才の子供達と、どのように取り組むかは・・「知的な教育・・にのみ狂騒してきた20世紀の教育を脱却して・・私達が取り組む・・新しい学問の分野だと思います。

 「しいのみ学園」が預かる三歳の脳性麻痺の子供たちは、一年後には、10人中3~4人が一般の幼稚園や保育所に適応できるまでに回復しているのだそうです。(!)

 もう、脳性麻痺は“不治の病”ではなくなっているのです。

 もう一つ。こちらは、読者のクリスリンさんクリスからいただいたメール。

 クリスさんは、ニュージーランドと日本の耳の不自由な子供たちが、お互いに手話でコミュニケーションをとれるよう尽力をしています。

 そしてこの夏、その夢の一つが叶い、福島県の森で、ニュージーランドの子供たちと福島県の子供たちが「手話キャンプ」を行うことができました。

NZSL and Culture camp (Chriss-Lynn Macpherson) 2004.7.30

Hello everyone! Wanted to share with you all the photos from the NZ Sign Language and Culture Camp we organised in July, this year.

Please take a look at let me know what you think.

We had a fantastic time. Even though it rained for the first two days.

The participants were very keen and on looking over the questionnaire forms, the feedback was all good. ^_^

Great to be a part of something so exciting and special.

Hopefully it wont be too long before the next one can be organised.

Until then...please take a look.

http://photo.sli-japan.net/thumbnails.php?album=16


Hope this finds you all well,
take care
love chriss
xoxoxoxoxo

 是非、ギャラリーをご覧になって、クリスさんに激励のメールを送って上げてください。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

クリスリンさん

(in 手話キャンプ)

管理人「葉羽」宛のメールは habane8@ybb.ne.jp まで! 
Give the author your feedback, your comments + thoughts are always greatly appreciated.

To be continued⇒“115”coming soon!

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【岸波通信その114「小さきは小さきままに」】2016.11.26改稿

 

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