こんにちは。気付けば人生の傍らには必ず映画があった岸波です。
世界は愛であふれてた。
劇場で見てから時間が経ってしまったのですが、川村元気の同名のベストセラー小説を佐藤健と宮崎あおいの主演で映画化した『世界から猫が消えたなら』について備忘録を書いておこうと思います。
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世界から猫が消えたなら
(C)2016 映画「世界から猫が消えたなら」製作委員会
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映画を観終って改めてポスターを見た時、「世界は愛であふれてた。」のキャッチコピーに感心しました。
何故なら、その一言こそがこの作品(川村元気の原作も含めて)のテーマだと感じたからです。
映画の冒頭で、主演の佐藤健が演じる「僕」のモノローグが入ります。
「世界から猫が消えたなら。
この世界はどう変化し、僕の人生はどう変わるのだろうか。
世界から僕が消えたなら。
この世界は何も変わらずに、いつもと同じような明日を迎えるのだろうか。
くだらない妄想だ、とあなたは思うかもしれない。
でも信じて欲しい。これは僕に起きたこお七日間の出来事だ。
とても不思議な七日間だった。
そして間もなく、僕は死にます。(中略)
そしてこれは、僕があなたに宛てた最初で最後の手紙になります。
そう、これは僕の遺書なのです。」
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世界から猫が消えたなら
(C)2016 映画「世界から猫が消えたなら」製作委員会
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映画冒頭のモノローグは、実は小説でも最初の見開きに掲げられているものと(ほぼ)同じです。
それ自体、衝撃的です。何故ならば、主人公は間違いなく死んでしまうことが暗示されているのですから。
きっと暗い悲しい物語…できることならば観るのは(読むのは)よそうか、などどいうネガティブな気持ちになる恐れさえ。
しかし、ソコをそうさせないのは、映画では佐藤健の魅力的なキャラクターでしょうし、小説では川村元気の人をグイグイ引き込む軽妙な文章だと思います。
そして… そんな感情をいっきに吹っ飛ばしてしまうトンデモ展開が待っているのですから。
主人公の「僕」は郵便配達員。母を病気で亡くし、時計職人の父とは軋轢があって独り暮らしをしています。
導入シーンの「僕」は、郵便配達のため自転車に乗って坂道を疾走しています。
かなりスピードが出ていて「危ないな…」と思っていると、案の定の大転倒。この時、映画では後方回転宙返りで地面に激突するので、観客から思わず悲鳴も。
病院で医者と対峙するシーンでは、どうやら転倒の怪我ばかりでなく日頃の体調不良についても詳しく診てもらったらしく、その所見が告げられます。
いわく・・・脳腫瘍グレード4。明日死んでもおかしくない状態だと。
ええ~!!!
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世界から猫が消えたなら
(C)2016 映画「世界から猫が消えたなら」製作委員会
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意気消沈する「僕」。混乱の極みで絶叫しながら病院を抜け出し、通りの人を撥ね飛ばし、橋のたもとでうずくまって嗚咽する・・・ということが現実にあるはずもなく、重い足取りでアパートへ戻るとそのまま玄関に倒れ込んでしまいます。
この(↑)シークエンスは小説でもそのまま描かれていて、“大袈裟にしない・作りモノ”っぽくない自然体の文章に引き込まれていきます。
やがて「僕」は飼い猫のキャベツの頬ずりで目覚めるのですが、ここで仰天展開が。
部屋の中に“自分そっくり”の人間がいて、ニヤニヤしながらこちらを見ているのです。
そしてその人物は名乗ります…「自分はアクマ」だと。ええええ~!!!
ハートフル・ドラマを見に来たと思っていたのに、まさに度胆を抜かれる展開とはこのこと。
しかも彼(アクマ)は言う…「もっと生きたいと思わない?」 なにぃ!!!
いったいどうなるのか予断を許さない状況になって来ましたが、要するに彼の提案は「悪魔の取引」。
この世から一つのものを消していいのなら、一つにつき一日ずつ寿命を延ばしてくれると言うのです。
ここのやり取りは実に軽妙。主人公は半分信じていないし、アクマはふざけたもの言いで「あらぁ~取引に乗っちゃったぁ」などという軽いノリ。
「それじゃあ、まずそこの壁のシミを消しちゃってください。」←おいおい。
「ざーんねん!…消すものは僕が選ぶんだよ。」←え!?
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世界から猫が消えたなら
(C)2016 映画「世界から猫が消えたなら」製作委員会
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最初にアクマが選んだものは「電話」。「僕」は命には代えられないと承諾することになります。
この「消去」というもの、小説のストーリーの中では確かに世界中から「そのモノ」が消滅し、人々は最初からそんなものは無かったという理解で辻褄を合わせています。
しかし、映画の中では「消去」を映像で表さなくてはならないので、いきなりのスペクタクル・シーンになります。後にはもっと巨大なモノ(建物)も消去されることになりますので。
ハートフル・ドラマを見に来たと思っていたのに、いきなりのSFXがさく裂。いったいどうなっちゃうんだろう? …既に完全に引き込まれています。
「この世から電話を消す」…それが意味することがどんなことか「僕」は消えてから知ることになります。
「僕」が付き合っていた「彼女(宮崎あおい)」は、そもそも間違い電話で知り合った仲。そうです…一つのモノが消えると、そのモノにまつわるすべての出来事も「無かったこと」になってしまうのです。
「僕」と「彼女」はある事件を境に遠ざかっているのですが、その居場所は知っていて会おうと思えば会える状態にありました。
しかし、電話が消滅した後、「僕」と「彼女」の歴史は全て消滅し、赤の他人になってしまったのです…。
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世界から猫が消えたなら
(C)2016 映画「世界から猫が消えたなら」製作委員会
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そんなふうに…自分の命を一日永らえるために、「僕」は大切な思い出を次々と失っていきます。
「映画」を消せば、映画好きな大親友を。「時計」を消せば、時計職人の父を。
自分のエゴのために、世の中の人にとってもおそらく同じであろう大切な思い出を犠牲にしていく葛藤。
そんな「僕」だけに分かる心の悲哀を唯一、癒してくれたのは飼い猫のキャベツでした。
まさか… アクマが次に選ぶのは!!??
小説ではアクマが最初に登場した時に来ていたのはアロハシャツとなっています。(なので、「僕」からの呼び名も「アロハ」)
でも、映画では主人公と瓜二つのいでたちで登場しています。
一方、映画冒頭の自転車転倒シーンは小説には無く、体調不良で訪れた病院で脳腫瘍が発見されることになっています。
映画で、主人公の「僕」はいつも転倒の名残りである鼻絆創膏を付けていますけれど、これは同じ服装で登場するアクマと見分けやすいよう設定したのでしょうね。
また、小説では飼い猫のキャベツが人間の言葉で会話しますけれど、これも映画では採用されていません。
結果として、いずれの変更も映画の感動を高めるのに成功していると思います。
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世界から猫が消えたなら
(C)2016 映画「世界から猫が消えたなら」製作委員会
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このストーリーで、僕が感極まったのは亡くなった母から届いた手紙に書かれていた内容についてでした。(おそらくほとんどの人がそうでしょう。)
その手紙は、「彼女」が「僕の母」が入院している病院へ見舞いに行った時に託されたものでした。
そんな遺書めいたものを息子に渡せば、二度と会えなくなる気がして、信頼すべき「彼女」に、息子が本当に困った時に渡してほしいと。
中にしたためてあったのは「死ぬまでにしたい10のこと」。
自分と同じことを考えたんだと、笑いながら二枚目を見ると…。
母も書きながら気づいたのでしょう。どの願いも自分の事ではなく「息子にしてあげたいこと」でした。
「あなたの人生はこれから何年も続くでしょう。辛いことや、悲しいこともたくさんあると思います。
だから、私はあなたがこれから生きていく上で、辛くなったり、悲しくなったりしたときに、それでも前を向いて明日を生きていけるように、あなたの素敵なところを10個伝えておきたいと思います。
そしてこれをもって、私の“死ぬまでにしたい10のこと”に代えさせてもらいます。」
そして一つひとつ…。
読み進めるたびに「僕」の目には涙が溢れ、劇場には嗚咽が溢れました…。
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世界から猫が消えたなら
(C)2016 映画「世界から猫が消えたなら」製作委員会
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同作品は、NHK「FMシアター」でラジオドラマにもなっています。
主人公「僕」と「悪魔」を声優として演じたのは妻夫木聡、「彼女」は貫地谷しほりが務めました。
妻夫木君は、これがラジオ声優初挑戦ということでしたが、きっと彼のキャラならはまり役だったでしょう。
しかし、映画での佐藤健君を観ると、まさに主人公「僕」のイメージにピッタリ。チョイワルなアクマも上手く演じ分けていて、終わってみれば、彼無くしては成り立たない映画だったとの思いも。
「彼女」の宮崎あおい、映画好きの親友「ツタヤ」の濱田岳、「母親」の原田美枝子、「父親」の奥田瑛二、誰もが非の打ちどころのない演技。素晴らしい作品に仕上がりました。
そして、特筆したいのは、HARUHIという女性歌手によるテーマソング「ひずみ」の素晴らしさです。
特にラストで流れるシーンとのマッチングは感動を大きく盛り上げてくれたと感じました。
そうそう… 登場人物に「僕」や「彼女」として名前を付けなかったのも、半ば現実・半ばファンタジー(悪魔がでるんですからね)のストーリーとして、全編の不思議感を醸し出すのに成功していると思います。
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世界から猫が消えたなら
(C)2016 映画「世界から猫が消えたなら」製作委員会
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さて…そもそも、あれほど愛し合い信頼しあった「僕」と「彼女」が、なぜ別れなければならなかったのか?
二人初めて行ったブレノスアイレスへの海外旅行で「その事件」は起きてしまいます。そして終盤、その真実が語られて行きます。
また「電話の消滅」によって二人の過去を忘却したはずの「彼女」は、どうして、母親から「僕」宛の手紙を手渡しにやってくるのか?
そして何よりも……「一日の命」と引き換に「かけがえのないもの」を次々と失っていく「僕」は、最愛の「猫」を消してしまうのか??
この映画は『世界は愛であふれてた』ことに気づいて行く物語…。
名曲「ひずみ」が流れるラストシーンは、きっと貴方に深い感動を与えることでしょう。
/// end of the “cinemaアラカルト176「世界から猫が消えたなら」”///
(追伸)
岸波
とりあえず、この上↑の本編まで書いたところで、昨夜ケイコと共に「シン・ゴジラ」を観てきました。
そちらの内容は、また別の時に・ということになりますが、ケイコに上の内容を話したところ「大事なことが抜けている」と。それは何かと問うと…
「結局この映画は、何もしなかった奥田瑛二(父親)が全部持ってっちゃったよネ~!」と。
うむぅ…確かに彼は黙々と時計を修理するシーンばかりで、「あいづち」くらいしかセリフを思いだせない。
そもそも「僕」と「父親」が反目するようになったのは、父が「母親」の臨終に間に合わなかったためなのですが、そこには大切な「理由」があったのです。
そして言い訳をしない「父親」が、いかに家族一人一人を愛していたか、「僕」の知らないところでストーリーは語っていきます。
なるほどなぁ… 影の主役は「父親」かぁ…
そう言えば!!
映画(小説)の冒頭で語られるモノローグ…「そしてこれは、僕があなたに宛てた最初で最後の手紙になります」にはまだ謎がありました。
そう…あのモノローグは「手紙」。その宛先の「あなた」とは、いったい誰だと思いますか?
さすがのケイコもこれは読み違えていました。分かるかな?ふっふっふ…。
では、次回の“cinemaアラカルト”で・・・See
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