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| ◆ プレブミのダウド社長 (前回の続き)1983年当時、現地法人スミコンウタマの事務所は市の中心部・ジャカルタ市庁舎のすぐ近くにあって、メンテンの宿舎からは車で10分ほどのロケーションでした。 JVパートナーのウレコンウタマ社の事務所の一部を間借りして営業していましたが、社長のトゥク モハメッド ダウド氏はアチェ出身で、当時のインドネシアでは珍しいプレブミの実業家でした。 プレブミとはインドネシア語で「大地の子」といった意味で、主にマレー系インドネシア人を意味しますが、人口の3%の華僑資本が経済の90%を牛耳っていると言われていたインドネシアではプレブミの実業家は珍しい存在でした。
漢字表記の看板を表に出すことを禁止したり、インドネシア大など有名大学の中国系インドネシア人学生の合格者数に上限を設けるなど様々な規制をかけて、マレー系インドネシア人の中国系に対する嫉妬と不満を抑えるようにしていました。 これがひいては1998年5月のジャカルタ暴動時の中国系に対する略奪・強姦・破壊行為につながっていくのですが・・・ ダウド氏は不動産会社のウレコンウタマを始めいくつも会社を経営していて、ウレコンの経営から離れた後は個人株主としてスミコンウタマの経営に協力をしてくれました。 1996年~1998年の2度目のインドネシア駐在時も健在で、いろいろとお世話になったのですが、暴動の翌年1999年の2月に亡くなりました。 ぼくは98年11月末にインドネシアからヨルダンに転勤していたため葬儀に参列することはできませんでした。
話を1983年にもどすと、奥さんと二人でジャカルタの歓楽街ブロックM近くの一軒家に住んでいた建築職が日本に帰国することになり、家の契約がまだ3年残っていたため、メンテンの宿舎を出て引っ越すことになりました。 当時は外国人向けのアパートなどほとんどなかったため、日本人駐在員の多くは3年~5年の長期契約で一軒家を借りて住んでいました。 当時は超借り手市場で家賃は全てドルで前払い、途中解約ができないので、住人が帰国する場合は後任が引き継ぐか、他社の日本人にまた貸しするしかありませんでした。 (家主はほとんどが中国系でした・・・) 太太が予定通り9月に出産したら、12月にジャカルタに呼び寄せることにしたので、ベビーベッドなどの家具をそろえる準備に入りました。 同時に日本から船便、航空便で輸送するものを手配したりと結構忙しくなってきました。
先住者の建築職は4年先輩でしたが、かなり個性的な人で、後にケニア、フィリピン等で一緒に働くことになるのですが、2007年には会社をやめてドバイのナキール社に転職し、世界最大の人工島パーム・ジュベル・アリのプロジェクトダイレクターになって、NHKの「沸騰都市・ドバイ」という特番で取り上げられたりしていました。 (かなりの高給で雇われていたそうです) 2008年4月にドバイ事務所開設準備のためシンガポールから転勤したぼくと今度は顧客として再会することになるのですが・・・ インドネシアから帰国するときも、会社に内緒で以前社費留学していたロサンゼルスからヨーロッパを回って世界一周して日本に帰り、日本に出張帰国していて報告を受けていなかった所長を激怒させていました。
◆ 現在/職場からスカイタワー 昼食時、橋から見るスカイタワーも寒そうに感じます。 ウミネコは元気にメッセンジャーの頭の上でがんばっています。 コロナが収束に向かい、上尾の夜も元気になってきました。 早速西口の居酒屋「茜屋」に太太と行ってきました。 魚のおいしい店で、サンマの炭火焼きを注文。 今年はサンマが高い; イカのわた炒めとぼんじり、皮の串焼き。 東京ラーメンストリートの塩らーめん専門店・ひるがお。 細めのストレート麺。 あっさり塩味のスープとも美味でしたが、鶏油が多いのが ちょっと気になりました。 あしたはよろしく。 (2年ぶり以上だねえ。) (2021.11.7up) という事で、本日11月7日のお昼からランチ・カラオケ大会です(笑) |
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