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| ◆ ゴルフとソフトボール (前回の続き)当時、現地法人スミコンウタマは土曜日は半ドン(死語?)で12時終業、即ゴルフ場に事務所の日本人連れだって出かけていきました。 東北大野球部OBのジャカルタ事務所長(兼現地法人の取締役)はシングル級の腕前で、初心者とラウンドするとヘタが移ると言って、我々とは別に客先と回ることが多かったですが・・・ アルンにいた頃は、土曜も夜まで勤務して日曜日も時々出勤していたので、ゴルフも月2回ほどしかできませんでしたが、ジャカルタではほぼ毎週土日に事務所の日本人や取引先の若手社員とラウンドしていました。
日曜、祝日には朝から2ラウンド回ることも珍しくなく、年間100ラウンドプレーするペースでした。 当時事務所にいた日本人(所長を除く)5人はほぼ同じレベルで、誰が最初に100を切れるか競争していました。 その後30年以上続くゴルフ人生で一番楽しかった時期かもしれません。 (3度目のインドネシア駐在からベトナムに移動になった2015年5月以降は、まったくゴルフをしておらず、ゴルフクラブも大半は処分してしまいました。日本ではプレー費も高いし、一緒に回る仲間もいませんし・・・) そんなわけで、太太たちが来る前は週末はゴルフばかりしていましたが、ある日所長に呼ばれ、ジャカルタジャパンクラブ(JJC)主催のソフトボール大会の前期シーズンが始まるので、お前も参加せよ」と一方的に言い渡されました。
所長が前年監督をしていた、その名も「ジャカルタ・パラダイス」はイナルム(インドネシア・アサハン・アルミニウム社)に出向していた住友化学、住友商事の社員を中心とした寄せ集めチームで、住友海上、日通、ヤマハオートバイ、長銀等の駐在員が参加していました。 JJCソフトボール部会は1975年設立され、当初1リーグのみだったのが、1983年当時には3部リーグ、18チームが参加していて、パラダイスは1部リーグ最下位で2部陥落のピンチでした。 結局、前期シーズンは1部リーグ最下位に終わり、入れ替え戦にも負けて2部陥落となりましたが、毎回試合が終わると奥さん達が持ち寄った弁当で酒盛りになり、実に和気あいあいとした雰囲気で、太太や長女+αが加わったらまさにパラダイスだなあ・・・と楽しみになりました。
1990年ごろからは郊外のグラウンドへ追いやられましたが、当時はジャカルタのど真ん中、アジア大会も開催されたスナヤン競技場(ブンカルノ競技場)の第2球場を使用でき、ユニフォームも、長嶋監督解任を機に巨人ファンをやめていたぼくが応援していた近鉄バッファーローズのユニフォームみたいで気に入っていました。 三菱、三井、住友、伊藤忠、丸紅、日商岩井といった商社チーム、アストラ(トヨタ)、テイジン、三菱コルト、東急、大日本などのメーカーチーム、JICA、エンバシーなどの官チームや日本人学校チームとバッカス、ハラパン(ネシア語で「希望」の意)や我がパラダイス等の寄せ集めチームで三部リーグの総当たり戦をしていました。
甲子園出場経験者や大学野球経験者、ラグビー、アメフト、相撲など他のスポーツでならした猛者など多士済済で、ホーム突入でキャッチャーに体当たりしたり、セカンドに滑り込んで足を骨折する人が出たりといい年をしたおじさん達がかなりの本気度で取り組んでいました。 (1998年5月暴動からは3年半中断しましたが、現在でも4部リーグ31チームでわいわいやっていたようです。2020年前期からはコロナのおかげでまた中断されているようですが・・・) そんな感じでジャカルタの単身パラダイス生活を楽しんでいましたが、α(アルファ)ちゃんの予定日に合わせて2度目の一時帰国を取り、8カ月ぶりに日本の土を踏むことになりました。
◆ 現在/丸の内のイルミネーション 11月12日は43回目の結婚記念日、二人の誕生日と同じでなぜか二人同年同月同日です。 丸の内では恒例のイルミネーションが始まっていました。 ウェディングフォト撮影中のカップルもちらほら。 食事は丸の内ビルのロシア料理「ゴドノフ」で。 三種のパン(黒パン、揚ピロシキ、焼ピロシキ) ボルシチと皇帝しか飲めなかったというスパークリングワイン(グルジア産) ビーフストロガノフとロシア料理の定番コースで。 近所の国道17号線沿いにオープンした喜多方らーめん「坂内食堂」。 会津喜多方らーめん スープは中太麺にからんで美味でしたが、ちょっとうま味、塩味とも強すぎる気も・・・。 悪い。メール、見てなかった。 普段からHOTMAILあまり見ないうえ、結婚記念日、孫の七五三、胃の内視鏡検査とイベント続きで・・・ (2021.11.21up) いやいや、別に急ぎの用件じゃなかったのでノープロブレム(笑) |
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