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| ◆ バラク・オバマの像 (前回の続き) 1983年6月、当時のジャカルタ国際空港・ハリム空港に到着しました。
1985年に現在のスカルノ・ハッタ空港が開港するまではここが首都ジャカルタの国際空港でした。もともとは軍民共用の空港で、現在はインドネシア空軍の主要飛行場として使用されています。 スカルノハッタ国際空港 スカルノ失脚のきっかけとなった9月30日暴動の時にはこの近辺で虐殺事件が起こったとか・・・ 当時、ジャカルタの日本人駐在員は所長(東北大野球部の元エース←本人談)一家(奥さんと長男、長女、次男の子供3人)、事務長、建築職2名でした。 建築職の一人は奥さんと二人で南ジャカルタの歓楽街ブロックM近くの一軒家に住んでいましたが、他のメンバーは全員ジャカルタ中心部のメンテン地区の一軒家に住んでいました。 メンテン第一小学校にあるオバマ像 平屋の所長宅と2階建ての独身寮をつなげた大きな家でしたが、メンテン地区はインドネシアの政府関係者や金持ちが多く住む高級住宅地で、オバマ元アメリカ大統領が6歳の時から4年間(1967-71)、母親の再婚相手のインドネシア人(地質学者で石油会社の重役)と暮らしていて、メンテン第1小学校に通っていたそうです。 母アン・ダナムとオバマ 彼の母親のアン・ダナムは当時としてはかなり跳んでる白人女性だったようで、カンザス州から家族と移り住んだハワイで、ハワイ大のロシア語授業で知り合ったケニアからの奨学金留学生であるバラク・オバマ・シニアと出会い結婚。 (オバマ・シニアは妻子をケニアに残しておりこの時2度目の結婚だったとか) 18歳でオバマ出産、父は研究の為ハーバード大に移り夫婦は疎遠になって1964年離婚。 1967年、アン・ダナムはやはりハワイ大学のインドネシアからの留学生、後の地質学者ロロ・ソエトロと再婚しジャカルタへ移住。 継父と母、異父妹+オバマ オバマは1971年、10歳の時オバマ・シニアと一度だけ再会したそうです。 父シニアはハーバード大で知り合ったユダヤ系アメリカ人女性とケニアに帰り、ケニアでは最初の奥さんの子供二人とアメリカ人の奥さんの子供二人と一緒に暮らしていたとか。 (この二人の経歴、書いていてすごく疲れますね;) 実父との再会 当時住友建設のジャカルタ事務所は会社登録をしていなかったので、現地法人スミコン・ウタマ社のアカウント・マネージャーとしてワークパーミットを取得しました。 スミコンウタマ社は住友建設50%、住友商事10%、インドネシアの不動産会社ウレコン・ウタマ社40%が出資した外資系建設会社で、アサハンアルミニウムプロジェクトの関連工事や日系の工場などの小規模工事を受注して細々とやっていましたが、翌83年から住友商事のオフィスビル工事を大林組、竹中工務店と3社JVで施工することが決まっていました。 早速前任の事務職と業務引継を始めましたが、彼はすでに心ここにあらずで、日本に帰って早く結婚相手を見つけるんだと張り切っていました。
引継が一段落したら一週間ほど休みを取って毎日ゴルフ三昧すると楽しみにしていましたが、宿舎兼所長宅で飼っていた犬に右手をかまれてしまい、最後の希望はかないませんでした。 イスラム教では、犬は豚同様に不浄の生き物とされていて、散歩にも連れて行かれず庭で鎖につながれっぱなしだったので、ストレスでおかしくなってしまったようです。 なんといってもジャカルタでは仕事帰りに一杯やって、カラオケ店やマッサージ店で羽を伸ばせるので、宿舎の先輩たちは毎日のようにあちこち出かけていきましたが、ぼくは身重の太太が日本で待っていることもあり、一人部屋でおとなしく本を読んだり宿舎にあった映画のビデオを見たりして過ごしていました。 立ちんぼのおかま嬢 当時宿舎の前の道は夜になると立ちんぼが大勢出没していましたが、夜遊びに出かけて遅い時間に帰ってくると、立ちんぼが道をふさいでスカートをまくり上げるのですが、これが手術後のもの、手術前のものまちまちでしたがとにかく全員がおかま嬢でした。 (この道はジャカルタでも「おかま通り」として有名な道だったのです;) 酔っぱらっておかま嬢をからかう豪のものもいましたが、車に乗り込んでこられて服を脱がされ、財布や時計を取られたりすることもありました。 (ぼく以外の人たちは)けっこうハチャメチャな生活をしていましたが、アチェの生活に比べるとパラダイスの様な暮らしでした・・・
◆ 現在/震度5の地震発生! メジャーリーグのレギュラーシーズンが終わり、すっかり大谷ロスに陥っています。 在宅勤務中はBSの大リーグ中継を見ながら(流しながら)仕事をしていましたが、10月4日の最終戦は朝4時からの中継を生で観戦することができました。 第1打席の46号ホームラン! 週3日は在宅勤務で火曜、金曜が出勤日ですが、8日金曜日は前夜の地震(上尾でも震度5!)の影響で電車が遅れ、超密な満員電車の状態を久しぶりに経験しました。 緊急事態宣言がようやく解除され、夜の上尾駅周辺もにぎやかになってきました。もう少し様子をみてから居酒屋めぐりなどしたいと思っています。 8日は満員電車で疲れ切り、東京駅中の千疋屋の和栗モンブラン、丹波栗モンブランを買ってきて太太とほっこり。 出勤日は相変わらずラーメンメインで食べ歩いていますが、今「ご当地ラーメンチャレンジ」という全国の有名ラーメン店を期間限定で東京ラーメンストリートに出店するというイベントを行っており、その第1弾が、戸塚の「支那そばや」。 「らーめんの鬼」の異名を持つ故・佐野実氏が創業したしょうゆラーメンの名店です。 (麺は男、スープは女、など数々の名言を残したとか) 醤油らぁめん・三元豚バラチャーシューをいただきました。 さすがの完成度でしたが、ぼくの好みとしては麺にもう少し歯ごたえがあればよかったかなと・・・ コロナが収束しそうでなによりですね。 もう少し様子を見て11月頃帰福したいと思いますが、 第6波とかこないでほしいよねえ。 (2021.10.10up) 久々にカラオケにも行った。既に結構混んでたな・・福島市は発症者0人が続いているからね。 |
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