「Ice Cubes」 by Fra's Forum♪

 

 

 

 

 

 


◆ 第二夫人を勧められた頃(爆!)

(前回の続き) インドネシアは5,110kmと東西に非常に長く、赤道にまたがる1万3,466もの大小の島々によって構成されています。

 古代から多くの民族が共存していて、現代でも300以上の部族が暮らしていると言われています。

 スマトラ島の北端・アチェ特別州に住むアチェ族は敬虔なイスラム教徒であると同時に好戦的な民族と言われており、街中で酒を飲んで騒いだりすると襲われるから気をつけろと脅かされていましたが、2月に出張でロクスマウェに来た時に「先日、華僑の経営するレストランが、酒を提供しているという理由で焼き討ちにあった」と聞かされてマジでビビったものでした。

 一方、メダンにはトバ湖を起源とするバタック族が多く、こちらはインドネシアではマイナーなキリスト教徒が多いのですが、彼らもまた好戦的な民族で、よくアチェ族と戦争をしていたとか・・・

トバ湖(世界ジオパーク認定)

 アチェ族曰く、バタック族には最近まで首狩りの風習が残っていて、切り落した首級の頭骨を除去した後土鍋で煮込み、乾燥させる工程を繰り返して拳大の大きさにしたものを紐でつるして飾っていたとか・・・

(ちなみにメダン事務所で我々をサポートしてくれた事務のマネージャーはバタック族でした)

 大工、鉄筋工事を外注したCV. TANAKAがメダンから職人、熟練工を連れてくると、よくプラントの入り口で待ち構えていた現地の住民に取り囲まれ中に入れないことがよくありました。

 よそ者を呼ばずに現地の人間に仕事をよこせというわけですが、大工、鉄筋工、電気工等の熟練労働者は現地にはいないので、どうしてもメダンやジャカルタから連れてこなければならず、地元の顔役に頼んで話しをつけてもらってなんとかプラント内に入場させていましたが、とにかくめんどくさかった・・・

 顔役にはなぜか気に入られて、娘さんを嫁さんにしないかともちかけられました。

【注】写真と本文は関係ありません(笑)

 もう結婚して子供もいると言っても、イスラムに改宗すれば4人まで嫁さんを持てると言われ・・・

(実際あのデビ夫人はスカルノ前大統領の第3夫人で、第4夫人も別にいたのですが)

 いわゆるコモンレイバー(単純労働者)はほとんどすべて地元の人間を雇っていましたが、(なかには甲斐性もないのに奥さんが4人いるという豪の者もいた)敬虔なイスラム教徒のはずが、慣れてくると休みの日に宿舎に遊びに来てビールをがぶ飲みし、酔っぱらって帰っていきました。家に帰って家族に怒られなかったのかなあ?

 このころの楽しみといえば、夕食後に所長とぼくのユニットのリビングでする麻雀と、OCS(国際輸送サービス)で日本から取り寄せていた少年マガジンと少年サンデーでした。

(一週間遅れぐらいで届き、一冊1800円ぐらいしましたが)

 少年マガジンでは、ちばてつやの「あした天気になあれ」や柳沢みきおの「翔んだカップル」が、少年サンデーではあだち充の「タッチ」が連載されていて、いい年をしたおじさんたちが回し読みをして、タッチの明青学園は甲子園に行けるか、跳んだカップルの行く末はどうなるのかなどと酒を飲みながら話をして盛り上がっていました。

 タッチでは弟の上杉和也が甲子園を賭けた決勝戦の日に交通事故で死んでしまうという衝撃の展開となるのですが、アルンのおじさんたちもショックを受けて大いに嘆いていたものでした。

 実は少年サンデーの編集部も和也を殺すのには大反対だったそうで、あだち充は和也死亡の原稿を担当に渡した後雲隠れして修正に応じなかったというエピソードがあるそうです。

 そんなこんなでなんとか遠い島での生活にもなじんできたころ、イスラム教のラマダン(断食月)が始まり、宿舎の中にあったモスクが朝の4時に大音響のアザーン(礼拝への呼びかけ)をスピーカーで流すようになりました。

 それでなくとも朝の7時から夜7時までの長時間勤務で睡眠不足だったところ、朝の4時にむりやり起こされるのでは、夜のマージャンもできなくなってしまい、本気でモスクに火をつけてやろうかと思ったものでした。

◆ 現在/石川島公園

 梅雨に入り、昼休みに東京駅のラーメンストリートまで出かけていくのもしんどくなり、近場の新川や八丁堀辺りで昼食をとることが多くなっています。

 写真は江戸初期に幕府の御船手組屋敷が設置されていたという亀島川と、亀島橋の袂にある銀座の柳・四世と松尾芭蕉の句碑。

亀島川

 東京行進曲にもある銀座の柳は何度も震災や戦火で焼失したものの地元の企業や住民の力で復活しているとか。

 「八丁堀を詠む 菊の花 咲くや石屋の 石の間(あい) 芭蕉(五十歳)元禄六年(一六九三)」と刻まれた句碑は平成14年(2002年)建立。


 元禄6年(1693年)秋の句で芭蕉50歳。死の前年に当たる。

 この地では東洲斎写楽や伊能忠敬も暮らしていたとか。

 亀島川沿いの魚豊のかわはぎ天ぷらと刺身の定食。

 八丁堀二丁目の「七彩」。

 喜多方ラーメンの名店で、6年前に東京ラーメンストリートから八丁堀に移転してきました。コロナ前は店の外まで長い行列ができていましたが、今は店の中のベンチに5人ほど座って待っていただけでした。

 初めて食べた時は煮干の利いたスープ、手打ちの中太ぴらぴら麺、バラ肉とロースの二種のチャーシュー、細切りのメンマ等どれもすばらしく、感激したものでしたが・・・

 今回はスープの味にインパクトがなく、麺も一部ダマになっていたり・・・

 値段は一年前食べた時より270円も上がっていたのに、残念です。

 コロナがこんなところにも影響しているのでしょうか・・・

 ワクチン2回目打って11日目、そろそろ動き出してもいいかなと思い、これから太太と倉敷まで出かけていきます。

 ぼくは副反応がまったく出なかったので、抗体ついてないんじゃないかと心配ではありますが・・・

(久しぶりのヒコーキ、楽しみです。)

 (2021.7.4up)

葉羽写真のラーメンだけど、一見してスープも麺も「喜多方」とはかけ離れているね。スープの色はもっと薄いし、こんな脂の層が浮いたりしてない。麺は手打ち風だけれど、そもそも喜多方に手打ち麺は無く、多加水の平打ち縮れ太麺を作る製麺業者の麺を共通に使っていたから、どこも同じタイプの麺だったんだ。(現在は、製麺業者が数軒あるけど。)モモ肉チャーシューも喜多方ではあまり見ない・・むしろ白河だね。何でこうなった?(笑)



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