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| ◆ 駐在員生活の思い出/ヘリテージコート
コンサル(山下設計)も乗り込んできて、JICA、ケニア教育省、ジョモケニヤッタ農工大学当局と契約締結の打合せを開始。
ホテルに調理器具を入れてケニア人のコックを雇いホテルの部屋で食事を作らせていました。 ケニアはイギリス植民地時代に鉄道建設のため連れてこられたインド人労働者の子孫が多数残っていて、おいしいインド料理のレストランがたくさんあった。 上の写真は、当社(所長、主任、メカニック、インド人エンジニア2)、ダイダン2、日立プラントと中華料理店で会食した時のもの。 併せてエージェントを介して一軒家、アパート、メゾネットなどあちこち探し回り、たいたいが喜びそうな物件を見つけました。 1/2エーカー(約2000平方メートル)ほどの敷地を塀で囲って8軒の家を配置し、入口にゲートを設けてガードマンを常駐させたコンパウンド形式で、その名もヘリテージコート。
当時のガードマンはほとんどが長身痩躯のマサイ族だった。
そのうちNo.7とNo.8の2軒を借り、1軒を単身者宿舎(日本人所長、インド人2名)、1軒を我が家とすることに。 4ベッドルーム、3バスルーム、運転手、メイド用のサーバントクォータ付き。 庭にハチドリが飛び、カメレオンがゆっくり道を横切っていたりして、これはたいたいが見たらよろこぶだろうなあ・・・と。 我が家となったヘリテージコートNo.8。↓
なお、Google Mapから拾った23年2月のヘリテージコートの写真はコチラ。 35年前とほとんど変わっていないような・・・。 日本から輸入する資材の通関手続きを業者と打ち合わせするため、モンバサに出張することもしばしば。飛行機の窓から見えるキリマンジャロに感激。
「アフリカの水を飲んだ者はアフリカに帰る」ということわざ、というか言い伝えのようなものがありますが、実際、ケニアには海外青年協力隊OBで、日本に帰国後また戻ってきた人とか、日本に帰らずそのままケニアに住み着いた人が多勢いました。 現地で雇ったメカニックは協力隊OBで現地の女性と結婚して子供もいて、ダイダンの電気設備担当者も協力隊OBでケニア経験者。
当社のナイロビ事務所の副所長(営業担当)も協力隊あがりで、毎年サファリラリーの時期になると、仕事そっちのけで日産チームにつきっきりでサポートしていました。 5月13日、ホテルからヘリテージコートへ引越。住み込みのコックとメイド二人を新たに雇って新生活が始まりました。 ヘリテージコートには、イスラエルの家族が2軒、インド人家族が2軒、ソビエト連邦の夫婦が1軒を借りて既に生活していました。 当時の社内規程では6か月駐在してその後さらに1年以上の駐在予定があれば家族を帯同できることになっていて、家族呼び寄せのため帰国休暇を取得。 7月27日、生涯初のビジネスクラス(ルフトハンザ航空)に搭乗し2230ナイロビ発 翌朝0530フランクフルト着。 航空会社提供のシェラトンホテルにチェックイン後、市内をぶらぶらしてマイン川周辺を散策してソーセージをつまみにビールを飲んで。 フランクフルト-成田はJALで2050発、翌日1500着。8時間の時差ぼけ頭でたいたいと子供たちの待つ福島へ直行しました。
(現在/上野動物園から新橋かき小屋へ) 2月1日、ほぼ1か月ぶりに電車に乗って上野の国立美術館のモネ展を見に行ったところ、チケット売り場が長蛇の列で1時間以上寒空の下待たねば入館できないと。 やむなくモネ展はあきらめて動物園見学に予定変更。
冬場で観覧時間が短くなっていて、パンダを初めゾウやキリンも見られず。 2019年11月以来、上野にライオンはおらず、サル山もリニューアルのため現在閉鎖中とかで、かなり寂しい状況ながらシニアの入場料300円分はしっかり楽しんできました。 上野から新橋へ移動して、ガード下のかき小屋・新橋へ。
北海道、岩手、兵庫の生牡蠣を食べ比べ。 岡山、兵庫産の大きな牡蠣をじっくり焼いて・・・ 〆にかきおにぎり(お茶漬け風) 久しぶりの東京ラーメンストリート。 ミシュランガイド東京2015・2016」ビブグルマンに2年連続選出されたという「花道庵」の味玉味噌ラーメン。
こくのある味噌スープに太麺がからんで美味。
#178送ります。毎度毎度遅くにごめん。 明日(2月8日)、福島行きなので今日のうちにおくっておきます。
(2025.2.9up)
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