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| ◆ ドラクエⅡの日々 (前回の続き)草深家の男の子たちもインターナショナルスクールに入学し、長女と一緒に通い始めましたが、いきなりの英語の授業について行くのは大変だったようです。 太太も毎日スクールについて行き、中央区・新川の教員時代の経験を生かして子供たちが授業になじめるよう奮闘していました。 仕事も相変わらず忙しく、日曜出勤もしょっちゅうでした。 特に草深さんは20キロほど内陸にあるガスフィールドの現場を担当していて、毎朝AAFのキャンプから通っていましたが、ガス田の現場近辺は特に治安が悪く、現場で雇ったセキュリティ(地元のやくざだった?)がジャカルタから来たローカルの事務職を鉈をもって脅しあげたり、ゲートで車に投石されたりという事がたびたびあったため、警察に特別警護を依頼していました。 (見返りに警察署長から現場用車両をレンタルしたり、娘さんを事務員で雇ったりとけっこう物入りだったのですが)
草深家には時々実家から慰問袋が送られてきて、ドラゴンボールや北斗の拳、キャプテン翼などの単行本を回してもらうのが楽しみでした。うちの子たちはまだ興味がなかったので、ほとんどぼくだけが読んでいたのですが。 子供たちはよく一緒にファミコンでスーパーマリオや火の鳥などで遊んでいたのですが、ある日「これはまだ子供達には難しいので」とドラゴンクエストⅡを譲ってくれました。 これにすっかりはまってしまい、子供たちが寝てから毎晩遅くまで冒険の旅に出たため、すっかり寝不足になってしまいました。 4月末からはラマダン(イスラム断食月)が始まり、断食中は現場が午後3時終了となったため、少し早く帰れるようになりました。 ハリラヤ(ラマダン明けの大祭)の5日間はプラントも完全休暇となり、マレーシアのペナン島へ行く組とシンガポールへ行く組に別れました。
我が家は父の快気祝いを兼ねてシンガポールへじじばば4人を顎足つきで招待することにしました。 (妹に日本で航空券等を手配してもらい、付き添いで一緒にシンガポールまで来てもらいました) 5/27メダン・ポロニア空港からシンガポールに入りニューオータニホテルにチェックイン。
サロンに行った太太と長女がなかなか帰ってこず、空港へ迎えに行くのが遅れ、悪い事に日本からの便が早くついてしまったため、30分以上アライバルラウンジで待たせてしまい、すごく心細かったとしばらくグチを言われてしまいました。
その夜はニューオータニの日本食レストランで食事、翌朝大量のお土産を孫たちに配って、隣接の大丸デパートでショッピング、そのあとも免税店やセントーサ島観光などをし29日はマーライオンを見て超有名な屋台村・ニュートンサーカスへ。
当時のニュートンサーカスは今ほど洗練されてなく、中国の雰囲気が漂っていて青春時代を中国本土で過ごした父は懐かしがっていました。 太太はカルチャーショックのせいか、ずっと腹痛がおさまらずせっかくの食事を楽しめず、しばらくぼやいていましたが・・・
◆ 現在/「ゆず」と「南風亭」 庭のバラたちもほとんど散ってしまいました。 長女が第二子出産で入院中で、上の子の世話で太太が長女の家に泊まっているので、毎朝代わりに庭の水まきをしています。
父の三十三回忌と母の十七回忌のため福島に帰省。
六十年来の友人たちと沢の茶屋・ゆずへ。 味噌おにぎりをはじめ懐かしくも優しい味わいでした。 法事の会食は南風亭で。 白子焼、天使のえび、岩ガキ、キャビアを乗せていただく鮎せんべいなど洗練された料理をいただきました。
中央大橋から新川公園(隅田川テラス)を永代橋まで歩き、めでたい屋で尾道ラーメンを。 瀬戸内の小魚と鶏ガラのスープを甘露醤油で割ったコクのあるスープと特注平打ち麺が自慢とか。 背脂も使っている割にあっさり食べられました。
6/1に6人目の孫誕生。 5人目、長男の第二子が男の子だったけど、6人目はまた女の子。 太太は長女の家に泊まり込みで4番目の孫のお世話していて、 カンボジア赴任が近いのに、上尾で一人暮らししています。 こちらは16日出発が決定し、引継ぎ、赴任準備で忙しくなってきました。 次回からは駐在生活の思い出はお休みして、カンボジアの状況をお知らせするようにします。 昔の日記や写真、ビデオを引っ張り出して思い出編を書いていますが、(これがけっこう楽しい) カンボジアに持っていけないので。 (それでは、シンポジウムの成功、祈ってます。) (2022.6.5up) ありがとう。 ってことは12日~15日の互いの空白の4日間も厳しいってことかな。やむを得ない。身体に気を付けて、いってらっしゃーい! |
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