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| ◆ 飯坂温泉で孫が大集合 (前回の続き)当時会社の国外勤務規程では、家族帯同者は家族を帯同した日から2年経過し、さらにその後1年間の駐在が予定される場合に、家族そろって一時帰国休暇を取得できる、とあったので家族帯同日・1983年12月24日の2年後、1985年12月に家族5人で一時帰国休暇を取ることにしました。 次女の出生届、パスポート取得等の手続きでジャカルタ日本領事館に通って準備をし、12月20日、ガルーダ航空の夜行便で帰国の途につきました。 5歳3か月の長女、2歳3か月の長男、0歳3か月の次女を連れて飛行機に乗るのは大変な難行でしたが、子供たちは奇跡的におとなしくしてくれ、なんとか無事に日本にたどり着くことができました。 今回も成田まで義父母、母が迎えに来てくれましたが、手術後まもない父は家でおとなしく待っていました。 (迎えにきたくてしょうがなかったそうですが・・・ ) 皆と別れて、ぼくは一人当時四谷にあった本社へ出向いて海外事業本部と古巣の経理部へ報告を兼ねて挨拶へ出かけ、その夜は寿司屋とカラオケで盛り上がって翌朝福島へ向かいました。 前立腺のガンを摘出した父は思ったよりずっと元気で、孫たちと楽しそうに過ごしていて安心しました。 特に3か月で別れた長男がすぐになついていて片言で話すのがかわいくてたまらないようでした。 早速友人たちと連絡を取って福島で飲み歩き、カラオケにもいきましたが、友人たちが歌う歌が全く知らない歌ばかりでカルチャーショック?を受けたのをよくおぼえています。 太太は産後の健康状態をチェックするため人間ドックに入り再検査項目が多くて心配しましたが、正月には義父が飯坂温泉の旅館を予約してくれ、しっかり保養することができました。
この旅行には太太の姉一家(娘4人の女系一家)も参加して実ににぎやかな保養でした。 妻の実家で孫7人が集まると、長男が女の子6人に囲まれて肩身が狭そうにしているのがなんともおかしかったですが・・・ 今でも太太が「あの頃は小さい子供たちを3人連れて本当によくやったわね・・・あなたは何もしなかったけど・・・」と横目でにらんできます。 (ぼくもかなりがんばって手助けしたと思うんだけどなあ。) まあ実際大変ではあったけど今思い返すとそれがすごく楽しい時間だったのですが・・・
ジャカルタへ帰ってから、新しい家探しを始めました。 前任者から引き継いだ家の契約期間が終了し、家主さんを通じて近辺の家を見て回っていましたが、大きな家に住みたがっていた太太がジャパンクラブの掲示板にサブリースの家を見つけてきて、そこに決めてしまいました。 5年契約で借りた家を契約期間を3年残して退去することになったため、残りの期間をサブリースするもので、家賃は相場の半分以下の月700ドル、場所も事務所のあるスミトマスビルから歩いて5分ほどの好立地の物件でした。 大きな水槽や2階にマージャン部屋まであり、リビングがやたら大きかったので、パラダイスの試合後の宴会やニョニャ会(婦人会)などのたまり場になってしまいました。
◆ 現在/指宿温泉へ 3月13日、太太と指宿まで出かけて行きました。 鹿児島県は既にまん坊解除されていたので、飛行機の乗客も多かったですが・・・ 指宿の駅前はシャッター街でしたが、浜辺の温泉街は賑やかでした。 ホテルにチェックインしてすぐに近くの砂蒸し温泉場へ。 砂むし会館・砂楽入口。 砂むし風呂は撮影禁止なので屋根から。 ホテル屋上の海の見える露天風呂。 翌朝の朝日。 個室の夕食。 前菜、お造り、牛しゃぶ。他にも黒豚角煮、目の前で揚げる薩摩揚等々・・・ 鹿児島市内を散策し桜島を撮影。 撮影した橋から下の川を見ると大きな魚のようなものが・・・。 イルカが何度もジャンプしてびっくりしましたが、川ではなく水族館とつながっている水路だそうで。 錦江湾とつながっている自然の海の一部だとか。 「こむらさき」の鹿児島らーめん。 あっさりしたとんこつスープ、コシの全くない麺。大量の千切キャベツと好き嫌いのはっきり別れる店だそうで・・・ 東京は3月18日に開花予報が出ていましたが・・・ 24日になっても隅田川沿いの石川島公園の桜はまだつぼみのままでした。 八丁堀・七彩の「春の塩らーめん」。 小松菜を練りこんだ翡翠麺、菜の花、桜エビの具と豆乳を使ったスープと春っぽいらーめんでした。 最近、地震が多くて心配ですね。コロナも感染者の減少が少なくて、まん坊解除したらまた増えるのではと・・・ (心配の種がつきないねえ。) (2022.3.27up) 25日に報道されたんだけど、県立医大でもコロナのクラスターが発生してさ。どうも職員が教員や学生を誘って数十人のパーティをやったらしい。卒業シーズンで浮かれてたかな。他山の石。 |
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