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| ◆ 海外での第三子懐妊 (前回の続き)年が変わって1985年。ブロックMに開店した日本食スーパー、コスモのおかげで食卓がずいぶんと豊かになり、刺身や鍋なども自宅で楽しむことができるようになりました。 太太の友人が日本に帰国する際に、日本食の上手なメイドさんを紹介してくれ(とてもいい子なので大事にしてくれる人に雇ってほしいという事で)毎日おいしい食事を楽しめ、けっこう太ってしまいました。 他にもよく気の付く子守のメイドさんも雇えて、ときどき子供たちをメイドさんに見てもらって、太太と二人でホテルのレストランに出かけたりと日本では味わえないセレブな生活を楽しんでいました。 そんなある日、太太の体調が悪くなって病院へ行ったところ、なんと第三子ご懐妊とのこと! 嬉しいと同時にああ貧乏になるなあ・・・と思ってしまいました。 太太と相談して、第三子はジャカルタの病院で産むことにし、日本人がよく利用していた「Rumah Sakit Bunda」(House Sickness Mother:母の病院の意)を予約しました。
予定日は9月中旬とのことで、長女(9月8日生まれ)、長男(9月21日生まれ)と子供達全員おとめ座生まれとなりました。 ほんの一年前まで一人寂しく遠い島で暮らしていたのが、親子5人でにぎやかに暮らすことになろうとは・・・ そんなことにかかわらず、ソフトボールとゴルフには相変わらず精を出していて、ソフトボールは、ジャパンクラブの他にアメリカンリーグにも参戦して、ジャカルタインターナショナルスクールでナイトゲームをこなしていました。 アメリカチームはパワー、スピードともにけた違いで、ピッチャーは山なりのボールを投げなくてはいけないのですが、強烈な打球でパラダイスの内野手がノックアウトされたりと、なかなか刺激的な体験をすることができました。
ゴルフはある日突然フック病が発症して、どうしても直らず、肝心なところでOBを連発するためスコアがまとまらず、(持病の池ポチャ病もなおっておらず・・・)ワンラウンド90どころか100も切れなくなってしまいました。 ドライバーを捨ててティーショットをスプーンで打つようにして、なんとか100を切れるようになりましたが、90を切るのは次の駐在地のケニアに行くまで待つことになってしまいました。 6月にはスミトマスビル(住友商事ビル)が完成しスミコンウタマもジャカルタ市庁のある中心部のタムリン地区(JVパートナー・ウレコンウタマ事務所の一部を間借りしていた)から移転しました。
当時は周りに高いビルがほとんどなく、20階の部屋からはジャカルタ市内が一望でき、夜になると隣の住友銀行ジャカルタ支店の駐在員とウィスキーを飲みながら夜景を眺めたりしていました。 1階には竹葉亭(日本の竹葉亭とは関係なかった模様)が入り、おいしい鰻を食べることができ、寿司店「花」や焼肉「JUJU」のあるラトプラザが通りの対面にあるのもうれしかったですが、なんといっても我が家から車で5分ほどの距離にあって通勤が超楽になったのが一番でした。
このころジャカルタの道路は雨季に大雨が降ると冠水して大渋滞し、事務所までたどり着けないことがよくあったので、助かりました。 逆にメンテン地区の宿舎に住んでいた単身者達は通勤が大変になり、時々ブロックMで遅くまで遊んでいて帰るのが面倒になると、寝静まった我が家に転がり込んで泊って行ったりするのには閉口しましたが・・・
◆ 現在/Ponte Centro この冬は北陸に行ってカニを貪り食いたいと願っていたのが、オミクロン株の感染急拡大と北陸地方の大雪でかなわず、近場でラーメンや甘味を楽しんだりしてしのいでいます。 寒くて遠出したくない日は、本社ビル1階にある「Ponte Centro」で軽いランチを。 この日はマッシュルームポタージュとブルスケッタ。 ワインがほしかったけど、ぐっと我慢。 東京駅中、銀座甘楽の桜餅と千疋屋の苺モンブラン。 祝日の23日は太太とハライチの花咲の湯へ湯治に。 近くの花月で食べた道頓堀ラーメン。(五目あんかけ醤油ラーメン) 東京ラーメンストリートの・・ ・・ ソラノイロのチャーシュー麺。 地鶏、豚三種(バラ、モモ、肩ロース)、角煮とチャーシューが5枚も。 同級生の岡崎教授が亡くなったと聞き、びっくりしました。 彼は、ぼくが海外に出る前、晴海のアパートによく泊りに来ていたけど、 もう30年以上会っていなかった。 (盛岡に遊びに行く約束をしてたんだけどなあ・・) (2022.2.27up) 日本歴史上の様々なライバル関係について講話・講演していたみたいだな。一度、そういう話をしてみたかった気もする。合掌。 |
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