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| ◆ 三度目の禁煙、その後
1984年は、主にソフトボールに精をだしていましたが、ゴルフも精進して(太太、子供達には白い目で見られていましたが・・・)1ラウンド90を切るまでに上達し、あちこちのコンペで優勝したりし、オフィシャルではないですがハンデキャップも14まであがっていました。
最初で最後のハーフ30台を記録したことのあるアンチョールゴルフクラブで41-47と初の80台で回ると、平坦で距離のあるハリム・バル―、得意な山岳コースのサワンガン・バル―、池や水路や林に囲まれた難コースのスナヤンゴルフクラブと次々に制覇していきました。 ソフトボールの試合の後にワンラウンド回ったり、朝から2ラウンド回ったりすることも多く、30歳になったばかりで若かったとはいえ、今思うとよくがんばったものです。 太太もあきれていましたが、長女の保育園のママ友やジャカルタ日本人会に起ち上げた絵本文庫(クレヨン文庫と言ってだいぶ日本人社会に浸透していました)の友人たちの家でもみな同じような状態だったので、しょうがないとあきらめていたようです。
この年の4月20日、ソフトボールの春季リーグ第1戦の2日前、人生3回目の禁煙を開始。 買いだめしていたたばこをみんなジャガー(ガードマンのインドネシア語。夜6時に来て朝の6時迄門番をする。主な仕事は門扉の開閉。夜中はだいたい寝ている)にあげてきっぱりたばこ断ちしました。 子供が生まれたらたばこはやめると約束していたのがのびのびになっていて、ジャカルタ生活が落ち着いてきてようやく実行したものです。 当時、輸入品の日本のたばこは高かったので、現地のGUDANG GARAM (塩の倉庫)なる丁子入りのたばこをよく吸っていましたが、やたらと甘い香りがして、火をつけるとぱちぱちと火花が飛んでシャツに穴があいたりするので、家の中では吸わせてもらえませんでした。
インドネシアは現在でも世界有数のたばこ天国で、喫煙年齢に制限がないため幼児のニコチン中毒者も多く、最近でも1日40本たばこを吸う2歳児の動画が話題になっていました。 ちなみにこの禁煙は2度目の駐在国、ケニアから帰国する1993年まで9年間続くのですが、父の墓前に好きだったたばこを吸って供えたのを契機に終了。 93年から95年まで日本で働いていた間は週末パチンコに行く時だけ吸っていたのが、96年1月から2度目のジャカルタ駐在となった時からまた吸い始めてしまいました。
その後ジャカルタからヨルダンのアンマンに移ってから、2000年5月1日、人生5回目の禁煙を開始。 その後21年と9カ月禁煙継続中ですが、今でもたまに家族に隠れてたばこを吸っている夢を見ることがあります。 1992年4月~1995年1月、1995年7月~2000年4月までの間は喫煙していましたが、1984年以来ずっと家族の前では吸っていないので、ぼくは38年間ずっと禁煙していることになっています。
◆ 現在/大雪警報 オミクロン株の感染拡大で社内に感染者が出たり、大雪警報が出たりでこの二週間は2日しか出勤できませんでした。
出勤日の朝、バス乗り場から工事の進捗を眺めてきた東京ミッドタウン。 三井不動産の八重洲口再開発事業の目玉、45階建の超高層ビルで、ホテル、オフィスの他、1-4階には中央区立城東小学校も入るとか。今年8月竣工予定。
出勤した日は、東京駅中でスィーツを買って帰ります。
最近のお気に入りはフルーツ大福。
こしあん、ホイップクリーム、マロンショコラ等で大粒のフルーツを包んであり、白ワインにもよく合います。
今週のラーメンは家から徒歩5分の、中山道沿いにある「メロディー」で。 上尾に越してきた33年前にすでにあって今も経営している数少ない飲食店の一つ。 当時は札幌ラーメンの店で、この店のもやしたっぷりの味噌ラーメンが大好きでよく通っていましたが、3年間のケニア駐在から帰国した29年前に豚骨ラーメンの店に代わっていて、それからは足が遠のいていました。 5年ぶりに顔を出し、店の看板メニューのメロディラーメン(九州豚骨ラーメン。メロディラーメンも昔は野菜たっぷりの札幌ラーメン風だった)を注文。
豚骨ラーメンとしてはかなり美味しいラーメンだと思いますが・・・ 店のたたずまいは33年前と全く変わっていないのですが、味噌ラーメンも豚骨ベースのスープになって、もやしの量もかなり少なくなっていました。
昔のメロディーがなつかしい・・・ 原稿送ります。 子供たちの会社でもコロナ陽性者が出て、自宅待機になったり感染者が拡大してるのを実感してます。 2月には越前ガニを食べに行きたいと思ってたけど・・・
(2022.2.13up)
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