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| ◆ インドネシアのメイド事情 (前回の続き)1983年の大晦日は会社の日本人社員でゴルフを2ラウンドし、夜はそのまま所長宅で忘年会。ジャカルタに来たばかりの太太も準備を手伝って大変だったようです。 年が明けて元旦と2日は家でおとなしくしていましたが、3日にはゴルフの打ち初めに出かけ、育児は完全に太太にまかせきりになっていました。 当時のジャカルタ駐在員はほとんどがメイド部屋付きの大きな一軒家に住んでいて、住み込みのメイドさんを雇っていました。 我が家でも先住者が雇っていたメイドさんを引き継いで使っていて、子供好きで働き者だったので太太も気に入って長女もなついていたのですが、2か月ほどすると母親が病気と言って故郷へ帰り、そのまま帰ってきませんでした。 先住者は子供がおらず、よく外食していて仕事が楽だったのが、我が家では赤ん坊の世話から掃除、洗濯、買物から炊事迄働きづめで、耐えられなくなってしまったようです。
さっそく新しいメイドさんを友人に紹介してもらいましたが、炊事・掃除担当と洗濯・子守担当を雇って狭いメイド部屋に二人で入ってもらいました。 当時は田舎からの出稼ぎ者が大勢いて、メイドさんは月5千円ほどの給料で住み込みで働いていましたが、休みは月一回、年に一度、イスラム教のラマダン明け大祭の時に1か月分のボーナスをもらって一週間ほど里帰りするのが一般的でした。 (そのまま帰ってこないこともよくあったようです) 太太はけっこう上手にメイドさんを使っていたので、安心して週末はゴルフやソフトボールに興じていましたが、やはり内心おもしろくなかったようで、「あなたは海外に出てからは育児に全く協力しなかった」と今でも文句を言われています・・・orz 太太はその後、長女の幼稚園のママ友達とジャカルタ日本人会に絵本文庫を立ち上げたり、ジャカルタの邦人婦人会で確固たる人脈を築いていき、三菱商事や三井住友海上、東芝の駐在員の奥さんたちとは今でも時々会って食事をしたり一緒に旅行をしたりと交際を続けています。
3月11日、東北大野球部OBの所長が帰国しました。 次の職務はサンフランシスコの現地法人の社長で、訴訟社会のアメリカであちこちから訴えられ、大苦戦している住建アメリカ社の立て直しをするとのことでした。 所長の奥さんには太太と子供たちが大変お世話になり、太太は感謝しきりで今でも連絡を取り合っていますが、この2年ほどはコロナの影響で会えていないようです。 4月にはジャカルタ日本人会のソフトボール春季リーグが始まり、太太もパラダイスチームの会計係の妻として試合後の宴会の準備、飲食代の精算、打ち上げ会の準備などで大奮闘してくれました。 ぼくはこのリーグ戦ではピッチャーを任されて5試合に先発、全て完投して4勝1敗。
古い手帳に戦績がしるされていました。 ◆4/22 春季リーグ第1戦 丸紅戦 16-4 5回コールド完投勝ち ◆5/20 第2戦 JJS(日本人学校)戦 7-1 7回完投勝ち ◆6/3 第3戦 ジャニックス(日商岩井)戦 6-5 7回完投勝ち ◆6/24 第4戦 アストラ・トヨタ戦 9-6 7回完投勝ち ◆7/8 第5戦 Tiffico(帝人)戦 ◆7/15 最終戦の日本大使館戦は大使館が選手が集まらず不戦勝。 5勝1敗で春季リーグを終え、同率のアストラと1部リーグ昇格をかけて再戦することとなったのでした。
◆ 現在/東京の雪 2022年の初出勤となった1月6日(木)は東京23区に大雪警報が出され、昼休みに外に出た時には既に降り出していました。 中央大橋を渡っていくのがしんどかったので、橋の袂にある「上海ダイニング」で五目つゆそばをオーダー。 これが今年の初らーめん。 電車が止まる恐れがあるため、5時前に退社しましたが本社前の道もけっこう雪が積もっていました。 雪の中を歩くなんて20年ぶりくらいかな?と思いながら一つ先のバス停まで橋を渡って行きました。 (何度も転びそうになりましたが・・・) 東京駅前も雪の中。電車は走っていたけど、だいぶ遅れが出ていました。 上尾の家にたどり着くと庭にも雪が積もっていて、駐車場から庭に入る階段でまた滑って転びそうに・・・ 8日、花咲の湯に行く前に食べた花月の嵐げんこつらあめん味噌。 おいしかったけど、背脂の代わりに液状ラードが表面を覆っていて、年寄りにはちょっときつかった。 遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。 オミクロンのおかげで、また感染者が急増していますが ワクチン打ってりゃ大丈夫だろうと、明日太太と熱海の温泉に出かけて行きます。 (2022.1.16up) 通算100号到達、おめでとう! 熱海・・いいんじゃないか。雪の中の温泉もまた格別だろうね。 |
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