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| ◆ 血液型の話 かなり古い話になるけど、最初に駐在したアチェでの初仕事は日本人やローカルスタッフ、現地のワーカーなどのIDカード(天然ガスの液化プラント内の工事だったため、場内入場を厳しくチェックしていて、履歴書などの書類審査後に発行されるIDカードを携帯しないと入場できなかった)の申請がメインだった。 IDカードは名前、年齢などを記入し、写真を付けて申請するのだけど、血液型も記入することになっていた。 日本人スタッフは僕を含めてほとんどがA型だったのに、インドネシアのスタッフ、ワーカーの血液型はほとんどがO型だったのでびっくりした。
ローカルスタッフの一人に聞くとインドネシア(特にスマトラ島)ではO型が圧倒的に多いとか。 今回ネットで調べてみたところインドネシアではO型40%、B型30%、A型25%ほどという事だったけど、その時の実感では8-9割がO型という感じだった。 (日本人はA型40%、O型30%、B型20%といったところ) そうか、それでインドネシアでは約束の時間は守らないし、いいかげんな人が多いんだーとしっかり納得してしまった。 (O型の人、インドネシアの人、ごめん) しかし、世界ではO型が優勢な地域というのはかなり多いようで、南米やアフリカなど半分以上O型という国がざら。 ボリビアなど90%以上がO型だとか。 また、アジアや中東などはB型の比率も高く、Oと同じかそれ以上の割合になっている国もけっこうある。 中国なんかもそのタイプで、周りを気にせずマイペースで声がでかい。 (↑B型への偏見?) 初めて上海に行った時、駅前の広場で天を仰いで叫んでいる男がいて、何をしているのかと思ったら携帯で電話していただけだった。
その後も大声で怒鳴りあって、けんかしているのかと思ったら実は談笑していただけ、という場面を何度も見た。 実際マイペースな人達ではあります。 (血液型による性格診断には科学的根拠はないそうです。したがって↑はまったく僕の独断と偏見です。B型の人-特に太太-ごめん)
◆ ヨルダンへの転勤命令 さて、5月暴動の後、治安の悪化と通貨危機による経済停滞のためにめっきり仕事が減ってしまい、98年11月にはヨルダンへの転勤命令がでたわけですが。 (また横スベリ!) たまたまNHKワールドでヨルダン特集などやっていて赤茶けた土漠の街にコーランが響き渡るシーンが流れ、なんとも寂寞とした感じだった。 その頃はインドネシアの現地法人の取締役になって「この会社は当分所長とお前にまかせる」というようなことを言われてその気になっていたところでもあり・・・「いっそ会社辞めちゃうのもありかな」などと思って家に電話してみると・・ 太太「あら、おめでとう。また知らない国にいけるわね♪」 子供達「落ち着いたら遊びに行くねー♪♪」 というわけで翌日本社に受諾の連絡を入れたのでありました。 (太太も長女も長男もB型-末娘だけAB-ポジティブな人達であります。) シンガポール、ドバイ経由で11月29日首都アンマンに到着。
しばらく宿舎のアパートの5階に一人で暮らしていると12月17日の深夜1時半(日本時間朝8時半)に電話が。 「アンマン日本人会の緊急連絡です。米英軍によるイラク空爆が始まりましたので、十分注意してください。」 「了解しました。具体的にはどう気をつければ・・・?」 ・・・(しばし沈黙) 「えー、とにかく危険な場所に近づかないとか・・・」 (速攻でベッドにもどって寝直し!)
◆ ヨルダンの王位継承 その年は12月19日からラマダン(イスラム暦の9月で断食月)が始まり、普段はスーパーでウィスキーやビールが買えたのに、この期間中は販売停止。 (お酒のコーナーの格子戸に大きな錠がかかっていた) まあ、普段スーパーでお酒が買えるだけ他のイスラム国家、サウジやクェートなどよりはだいぶましなのですが。 (ラマダンに入る前にしっかり1か月分買いだめしておいたけど) 翌99年1月になるとアメリカでガンの治療中だったフセイン国王(当時)が帰国。 ヨルダンのハシミテ王家はイスラムの預言者・ムハンマドの子孫と言われており、元はメッカの太守でもあったそうで、アラビアのロレンスに出てくるアラブのファイサル王子(後のイラク国王)もハシミテ王家の血筋で彼の兄のアブドラがヨルダン国王になる。 しかしながら、メッカを追われ、中東戦争では聖地エルサレムをイスラエルに奪われ、苦難の道を歩んできた王家とのこと。 国王は治療経過が思わしくなく、故国で最後の時を過ごそうと帰ってきたらしく、皇位継承権を与えていた実弟のハッサン皇太子から皇位継承権を剥奪して長男のアブドラ王子を皇太子に指名。
ほどなくフセイン国王が崩御すると、ハッサン前皇太子がクーデターを起すのではないかという噂が流れ、またしても厳戒態勢。 30年続いたスハルト政権の最後の時に居合わせ、今度は即位47年の国王の最後に居合わせ・・・・最近不思議とこういった状況に縁があるなぁと思っていたところ、クーデターどころかデモの一つもなく、葬儀~服喪期間を経てアブドラ2世の王位継承まで平穏無事に行われた。 葬儀の時は国王の棺を乗せた車がアンマンの目抜き通りをゆっくり進行し、沿道を埋めたイスラム装束のおばさんなどが泣き叫んでいて、国王がその清廉潔白な人柄からヨルダン国民の尊敬を集めていたのは疑いのないところだった。
アンマンは標高が700メートルほどあるので冬はけっこう寒く、雪が降ることも何度かあったが、葬儀当日もみぞれが降っていてかなり寒い日だった・・。 (中東編 その2に続く)⇒ (2006.8.14) さあ、次はどんな経験が語られるのか楽しみだね! |
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