「Ice Cubes」 by Fra's Forum♪

 

 

 

 

 


◆ 5月動乱の思い出

 5月6日(土)、5年に一度のシンガポールの総選挙がありました。

 国会の全84議席の内82議席を与党・人民行動党が獲得し(同党の得票率は67%で前回01年の選挙より8ポイント減ながら、獲得議席数は前回と同数)、事実上の一党支配がまた更に5年間継続することになりました。

 しかし、ほんとに選挙などやっているのかと思うほど平穏で、選挙カーが走り回ることもなく、与党と野党連合の小さなポスターが目立たなく道路際に掲げてあるだけでした。

リー・シェンロン首相

 インドネシアやケニアでもやはり5年に一度総選挙がありましたが、選挙期間中は大衆がかなり熱くなって暴走しがちで、日本大使館から注意喚起や時によっては避難勧告が出るようなことも。

 家族でケニアにいた時には、選挙期間中、難を避けるためと称してエジプトまで行きました。

 (大使館が期間中国外に避難することを推奨していたので)

 ついでにナイル河下りなどしてきましたが、考えてみると当時からカイロやルクソールなどでは、観光客を狙ったテロが頻発していたので、実際どちらが危険かわからなかったですね。

ナイル河クルーズ

 インドネシアでは2度目の駐在中の1997年5月に総選挙があり、当時のスハルト政権の与党・ゴルカルが歴史的圧勝を収めましたが、選挙運動中に何度か野党支持者による暴動が起こりました。

 翌1998年3月には大統領選挙が行なわれ、スハルトが無投票で7選。

 ここから、当時日本でもけっこう大きく報道されたインドネシアの、いわゆる「5月暴動」に発展していくわけですが、僕の駐在生活の中でもっともスリリングな体験でした。

5月暴動(1998年)

 30年以上続いたスハルト開発独裁政権は汚職・腐敗の噂が絶えず民衆の不満は相当高まっていて、さらに97年7月から始まったアジア通貨危機とガソリンなどの物価高騰もそれに拍車をかけることになりました。

 余談ですが、この通貨危機では1米ドル=2,500インドネシアルピーぐらいだった為替レートが最大で1ドル=15,000ルピア以下にまで下落。

 (ちなみに最近のレートは1ドル=9,000ルピアぐらい)

 現地の給料は米ドルで支給されていたので、ルピアに両替すると月給が一気に6倍ぐらいになったような感覚でした。

 例えて言えば日本で給料千ドルもらって10万円に換えて使っていたのが、いきなり60万円に増えたような感じでしょうか。

 '98年になると各地で暴動が広がり始めその対象は特にインドネシアの経済を牛耳っている中国系住民に向かっていきました。

 日本人はちょっと見中国人と区別がつかないので危険と言われており、車に日の丸を付けて走ろうかなどと言う者もいました。

 さすがにそれはあざといのではということで実現はしませんでしたが、実際社員の乗っていた車が暴徒に投石されてフロントガラスを割られそうになったこともありました。

 5月12日にはスハルト退陣要求を掲げてジャカルタ郊外のトリサクティ大学での反政府集会をしていた学生に警官隊から実弾が発砲され学生4人が死亡、5月暴動の引き金となりました。

 (しかし、横スベリさせるのが好きな会社ではあるね)

(この発砲は実は警官ではなく、クーデーターを狙った軍の特殊部隊が実行したと言う説も)

軍に鎮圧される反政府集会

軍に鎮圧される反政府集会

(ジャカルタ)

 12日~15日の4日間に起こったジャカルタでの暴動では商店、銀行の略奪、その後の放火、暴行、婦女暴行、殺人なども伴って、その被害者は多くが中国系住民でした。

 金持ちの中国人はすばやく海外に脱出していて、残って被害にあったのは商店主などさほど裕福ではない階層だったようです。

 (中国系600万のうち脱出したのは3万程度とか)

 14日は事務所(ジャカルタ市中心部の南側のビルの20階)で仕事をしていると、北方の中国系が多く住むコタ地区辺りから火の手が上がり、次々と黒煙が昇ってそれがだんだんと事務所の方向に・・・

 この日は日本人学校の生徒850人も学校周辺の暴動で帰宅することができず、職員と一緒に一晩学校で過ごす事態となりました。

 16日にはだいぶ平穏に戻るものの、17日には日本大使館から危険度4の「家族退避勧告」が出され、本社の担当部長に電話すると「所長と事務長のお前以外の全社員・家族を日本に急ぎ帰国させるように」とのお言葉。

 「おまえと所長の○○は慣れてるし、少々たたかれたぐらいじゃ死なんだろ」ということで、二人を除く社員・家族は帰国することに。

 このころ、日本の新聞にも毎日「インドネシア在留邦人△△人に」といった記事が載り、1万人以上居たジャカルタの日本人も2千人余りまで減っていました。

 空港へ向かう高速道路では暴徒が車を止めて放火したりしていたので、18日ヒルトンホテルから空港までバスが用意され、社員と家族たちは出発。 

 ぼくと所長は、家よりは安全だろうと言うことで同ホテルにチェックイン。

炎上する首都

(ジャカルタ)

 ホテルから家に電話すると太太と子供たちが・・

 『テレビで見るとすごく危ないみたいだけど、実際その場にいるとそれほどでもないのよね』とか・・

 『お父さん、けっこう慣れてるからダイジョーブだよね』とか、まったく心配していなかった。

 19日はホテルからオフィスへ行ってみたものの情勢不穏で早々にクローズしてホテルに缶詰。

 ホテルからはインドネシア国会が近く、デモ中の学生が国会の屋根に上っているのがよく見えました。

学生の抗議デモ

(ジャカルタ)

 20日には大統領辞任を要求する大規模デモ発生の噂があり、一日中ホテルで待機。

 軍隊がホテルの前のスディルマン通など主要道路を封鎖して厳戒態勢をしく中、イスラムのリーダーがデモの中止を発表し、結局大事には至らず。

 日本人の避難は続き、ようやく本社も次に大きな暴動が起きたらお前と所長も帰ってよし、ということに。

 日本人脱出のため自衛隊の輸送機がシンガポールに到着と言うニュースもあり、これはひょっとすると自衛隊機に乗れるかも、とちょっと期待。

 (えらく高い料金を取られるという噂でしたが)

 ところが翌21日、続投に意欲満々だったはずのスハルト大統領が突然の『辞任表明』。

スハルトの辞任

(ジャカルタ)

 現地のテレビで一生懸命インドネシア語の演説を聴いていたけど、ふと思いついてNHKを回すと同時通訳で日本語の放送をしていたりして。

 自衛隊機での帰国もなくなり、意外とあっけなかったなと拍子抜けしましたが、後で思えばこの暴動後、インドネシアの政治・経済が混迷を極め、会社で持っていたプロジェクトも軒並み中止か縮小。

 おかげで6ヵ月後にはヨルダンに転勤することと相成ったのでした。 

 (2006.6.2)

 葉羽歴史の生き証人とはこのことだね。凄まじい体験をしてきたんだな。



 

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