新国立劇場オペラパレスの新シーズンが10月1日いよいよ開幕した。開幕の演目はプッチーニ作曲の「ラ・ボエーム」で5日間公演。演出は2003年のお披露目以来採用され続けている粟國淳(あぐにじゅん)の演出のプロダクション。
新国立劇場オペラパレスの自慢のプロダクションで2003、2004、2008、2012、2016、2020、2023、そして今回の2025年と実に8回目の登場だ。

このプロダクションは実によく考えられた舞台で、若く貧しい芸術家たち(ボヘミアン=ラ・ボエーム)の生活と冬のパリの詩情が胸に迫って来る。
ただ短い第3幕とやはり短い第4幕(最終幕)の間に休憩20分が入る。ちょっとここが難点だが、まあ台本ではこの間に数カ月が経過しているわけで、自然と言えば自然ではあるが。歌手の声の負担も大きく休憩が必要なのだろう。
配役は以下の通りだ。

配役は、ミミにマリーナ・コスタ=ジャクソン、ロドルフォにルチアーノ・ガンチ。私が聞いたのは10月4日土曜日で5日間公演の2日目だが、この主役2人が絶好調だった。
とくに、2023年11月のこの劇場での「シモン・ボッカネグラ」(ヴェルディ)でガブリエーレ・アドルノ役を歌って大喝采を浴びたガンチは今回も絶好調。私が聞いたこの劇場での5回の「ラ・ボエーム」の中で最高のロドルフォだった。いかにもイタリアのテノールらしい明るくそして伸びてくる素晴らしい声に酔わせてくれた。これは聞きものだった。
ミミ役のジャクソンは可憐で病弱のミミとしてはちょっと風貌が濃いのだが、声と歌はガンチに劣らず素晴らしかった。とにかくこの2人のアリアでもデュエットでもその歌唱に酔った。
実は予習もかねて2024年に上演された井上道義指揮読響の「ラ・ボエーム」(演出:森山開次)をTV録画で見たが、ちょっと疑問だったのがマルチェッロ役(池内響)。
フランス留学してボヘミアン生活を送っていた画家の藤田嗣治を連想させる丸メガネとおかっぱ頭なのだ。これはなかなか秀逸なアイデアなのだが、私が持っているマルチェロ像とは違い過ぎていて違和感をずーっと持ち続けてしまった。やはりマルチッロは大柄で髭面なバリトンというイメージが私の中に定着してしまっているのだ。
今回のマッシモ・カヴァレッティはまさにそうした私のマルチェッロ像にピッタリの名演だった。そして、第4幕で「古い外套よさらば」(ミミの医者代のために質に外套を入れる)を歌う哲学者コッリーネ役のバスのアンドレア・ペレグリーニの歌唱も胸にジーンときた。充実した外人勢に劣らずムゼッタ役の伊藤晴をはじめ日本人歌手たちも好演。

そしてパオロ・オルミ指揮の東京フィルが素晴らしかった。オルミの指揮はこの劇場で何度か聞いているはずだが、これほど印象的だったのは今回が初めてだ。まさに自家薬籠といった感じだった。東京フィルがそれだけ上手くなっているからではないだろうか。
新国立劇場合唱団の充実ぶりはいつも通り。いつも歌っていたTOKYO FM少年合唱団に代わって登場した世田谷ジュニア合唱団も良かった。

それにしても、なんともはかない恋の物語だ。これにプッチーニが盛り込んだ音楽の深さに今更ながら感嘆する。
最終幕ロドルフォたちの住む屋根裏部屋に運び込まれたミミはあっという間にひとり息を引き取る。そしてミミが息を引き取るまさにその一瞬に一緒にいることができなかったロドルフォ。なんで病床を離れてしまったのか。まだ大丈夫と油断してしまったのか。人生の縮図のような悲しい幕切れだ。
せめて死に目にだけでも一緒に居させてやれなかったのか。考え抜かれた幕切れだ。

歳のせいで涙腺が緩くなっていて、知っていながらまたまた涙が。油断して母の死に目に会えなかった自分のことが重なるのだ。