5月18日にドイツのバリトン歌手ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウが逝去した。享年86。
仮にクラッシック音楽の世界で男性歌手のナンバーワンは誰だ?(物故者含む)という投票があったとする。
女性歌手と違ってこれは票が割れそうだ(女性は無論マリア・カラスだ)。
私はディスカウに投票する。少なくともバリトン部門ならトップなのではないだろうか。
ディスカウは、オペラも歌った。それもワーグナーやモーツァルトなどのドイツ物ばかりでなく、ファルスタッフなどのイタリア物も歌った。
しかし、ディスカウをディスカウたらしめているのはその本領であるドイツ・リート(歌曲)だ。
ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ヴォルフ、マーラーの歌曲では他の追随を許さないだろう。惚れ惚れする美声である。
「目病み女に風邪ひき男」という(女っぷりや男っぷりがそれで上がる)が、ディスカウの声はちょっとだけ風邪引き声なのである。
そして惚れ惚れするドイツ語のディクションの美しさなのである。
ディスカウはその生涯にCDにして1000枚近いと言われる膨大な録音(特にドイツ・リートの分野では全集魔と呼ばれた!)を残した。
そして実に意外だが、その中からたった1枚を選べという質問はディスカウの場合決して難題ではない。
その1枚とはシューベルトの歌曲集「冬の旅」である。これ以外ちょっと考えられないのだ。
シューベルトは膨大な歌曲を残したが、誰もが認めるその最高峰が24曲からなる連作歌曲集「冬の旅」である。
シューベルト&「冬の旅」&ディスカウはまさに三位一体。70分ほどの長さでちょうどCD1枚分の長さ。
クラッシック音楽になじみのない方にもこの際是非聞いていただきたいものだ。大げさに言えば人類の宝である。
ディスカウはこの「冬の旅」を正式に7回録音している。ライブ録音や海賊盤を入れると総数は10枚を下らないだろう。
定評があるのは1972年(ディスカウは47歳)にイギリスの名伴奏ピアニストのジェラルド・ムーアと録音したCD(ドイツ・グラモフォン)である。
(※写真上掲↑)
「冬の旅」を私が実演で聞いたのはたった1回(1997年1月31日東京・サントリーホール)だけ。
歌はディスカウのライバルにして後継者と言われたドイツのバリトン歌手ヘルマン・プライ(ピアノはミヒャエル・エンドレス)だった。
翌年逝去したプライの最後の日本公演でもあった。24曲は一気に歌われ、アンコールもなかった。演奏後の疲れきったプライの姿が思い浮かぶ。
失恋した男が死を考えながら放浪するという筋立ての「冬の旅」は悲しいを通り越して憂鬱ないや陰鬱でさえある名曲である。
個人的には3年に一度も聞けば十分であるし、コンサート会場で聞くよう曲ではないと思う。
ディスカウの死を悼みながらひとりしみじみと「冬の旅」の灰色の世界に浸りたいと思う。
それにしても、寂しい。ディスカウは10年以上前に引退していたが、いわゆるカリスマ音楽家の最後の生き残りと言える存在。
20世紀はどんどん遠くなって行く。
(2012.6.6「岸波通信」配信 by 葉羽&三浦彰)
|