舞台を1960年代のフランコ政権下の抑圧されたスペインに設定したケップリンガー演出で見るのは(2012年、2016年に続いて)3度目だが、やっとその真価が感じられた。
このオペラ、最大の疑問は、アルマヴィーヴァ伯爵は、権力を笠にさっさと後見人のバルトロからロジーナを略奪すればいいのに、なんで酔っ払いの兵士や音楽教師に変装してまどろっこしいことをやっているのか?である。
さっさと略奪すると恋愛遊戯的なこのオペラが成立しないからなのだが(笑)、どうもロジーナの意志をきちんと確認したいという伯爵の心根の優しさにそのまどろっこしさの原因があるようなのだ。
だから、フィナーレの伯爵の超絶技巧による「私は実は遠山の金さん」的なアリアは大変に重要なのだが、今回の伯爵役のバルベラは実にその最大の疑問を見事に氷解させる名唱を聞かせてくれた。
後見人バルトロ役(ボルドーニャ)は手慣れたバッソブッフォぶりで楽しかった。
フィガロ役(センペイ)も完全にこの役を手の内に入れた安定感があった。
バジリオは私が聞いた過去2回は日本人歌手が歌っていたが、今回はマルコ・スポッティを起用。やはり違う。凄い低音の威力だった。
バジリオはこうでなくてはその奇怪さが出せない。これは日本人歌手には難しいようだ。
日本人歌手と言えば、ヒロインのロジーナは脇園彩。ウブな生娘ではなく、かなり世馴れしたワガママ娘という役作りだ。
低音も歌えるソプラノではなく、高音も歌えるアルト。私の好みのロジーナ像ではないが、日本人らしかぬ堂々とした歌唱と演技。
恐らくロッシーニのイメージしたロジーナはこんな感じかもしれない。
それともう一人の日本人歌手はベルタ役の加納悦子。
これが近くの売春宿でもアルバイトするシラケキッタ下女で、1960年代の抑圧されたフランコ政権下のスペインのムードはこんな感じかも。
とにかく、これほど歌手が揃った上演は世界的に見てももそうはない。
しかも、アッレマンディ指揮の東京交響楽団、新国立劇場合唱団(冨平恭平指揮)が見事なバックアップ。すっかり楽しんだ3時間だった。