(前号から続く)
リッキーがワールドホンコンを辞めて始めたのが、「セオリー」だ。
すぐに売れたことになっているが、タキヒヨーがライセンシーをやっていた最初期はなかなか売れなかった。
展示会で負け惜しみを言うリッキーの姿が忘れられない。
が、きっかけ(萬田久子と長谷川理恵の着用が大きい)を掴むと急伸長。
その後は順風満帆だったが、さらにファーストリテイリングの傘下入りという一山がある。
「いやあ、柳井正という経営者は本当に凄い。心底敬服している」がリッキーに会うと口癖のように出てくる。
最後の取材でも「『セオリー』が好調なのはわかりましたが、それはやはり『ユニクロ』流の生産管理・ロジスティックが効果を出したと考えていいのですか?」と尋ねるとリッキーは悔しそうに「それももちろんあるが、俺の頑張りだよ」。
「柳井さんからも『セオリー』はなんで好調なの?と最近尋ねられたが、私の頑張りですよ』って答えたら、柳井さんはニヤニヤ笑って何も言わなかったな」。
柳井正、そして最年少取締役として抜擢してくれたワールドの畑崎広敏・ワールド社長(当時)と並んで、リッキーが尊敬するもう一人の経営者は、ファッション人生をスタートさせたタキヒヨーの滝富夫・社長(当時)だ。
「俺は滝さん率いる特務部隊の先兵だった」と言ってはばからなかった。
今振り返ると、リッキーが本当にやりたかったファッション・ビジネスは師匠の滝富夫流(アン・クラインやダナ・キャランで大成功)のデザイナーズ・ビジネスだったと思う。
ゴードン・ヘンダーソンをバックアップしたり、フランスにノルマンディー・クチュール社を設立(ソフィー・シットボンなどを手掛けていた)したりいろいろチャレンジしたが成功しなかった。
その結果「セオリー」を始め、さらに「ユニクロ」のファーストリテイリングの傘下に入った。
80年代、90年代、ゼロ年代と30年間にわたるファッション業界の歩みがリッキーのジェットコースター人生には集約されていたように思う。
柳井正と滝富夫の二人のファッション観は真逆かもしれないが、共通しているのは、ファッションをグローバルな視点で捉えている点。
リッキーも自分の夢は「セオリー」をインターナショナルなブランドにすることだと常々話していた。
その夢はまだ100%成就したわけではない。
後に残された者に託された宿題だろうが、天国のリッキーが優しく見守ってくれるだろう。
しかし、リッキーのように海外のファッション業界人たち(表も裏も)と太いパイプで結ばれている日本人は現在ほとんどいないわけでその損失は計りしれないと思う。
ともあれ故人の冥福を祈ろう。合掌。
(2011.9.14「岸波通信」配信 by 葉羽&三浦彰)
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