2月16~18日まで、ドイツを中心に活躍する細川俊夫(1955~)のオぺラ「松風(まつかぜ)」が新国立劇場で上演された。
これは、ここ数年の同劇場のべスワン公演ではないだろうか(観たのは2月16日の初日公演)。
(細川俊夫氏)
武満徹(1930~1996)亡き後、日本を代表する作曲家ということになると、この細川俊夫の名を挙げる人が多い。細川は、この20年間、7つのオペラを作曲している。
この「松風」では、特に音楽をアートやバレエなどと組み合わせることで、観客が聴覚と視覚の双方で濃密な時間を持てるとを考えているようだ。
日本で細川のオペラが上演されることは稀だ。開場20年になるという新国立歌劇場でも、今回が初めての上演で日本初演だ。
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須磨の浜を通りかかった僧が松に刻まれた
2人の姉妹の名の由来を浦人に尋ねる
(撮影:MASAHIKO TERASHI 提供:新国立劇場)
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能を現代によみがえらせたというこの「松風」は、ベルギーのモネ劇場の委嘱作品で、台本はドイツ語で書かれているというのだから、日本人としては、ちょっと恥ずかしい。
ちなみにドイツ語圏を中心にかなり再演されており、そのたびに切符はほぼ売り切れていると聞く。日本人より能の本質をドイツ人が究めたなんていうことなら、ちょっと笑えないではないか。
誰かこの日本語版を作ろうという奇特な人物は出てこないのだろうか。ついでに小言を言うと、細川のオペラ作品は、来年7月初演予定の7作目「地震・夢」(作曲中)を含めすべて海外の団体からの委嘱である。
古今東西、作曲家というのは、依頼がなくても自発的に作品を書くなんていうことは稀であって、そういうことがこの東洋の小さな島国ではあまりにも理解されていない。閑話休題。
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2人の姉妹の汐汲みの場面。
ゴム製の特殊ネットを命綱を付けた姉妹が浮遊し歌う
(撮影:MASAHIKO TERASHI 提供:新国立劇場)
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「松風」のあらすじは:須磨の浜を歩いていた僧が、浜の松に「松風」「村雨」と刻まれているのを不思議に思い、浦人に聞くと…
「昔、松風、村雨の姉妹が、蟄居を命じられて須磨に来ていた在原行平の愛人となる。しかし都に単身で帰る行平を忘れられず、松に名前を刻む。都に帰った行平はほどなく死に、2人もその後を追うように死んだ」。
僧は2人の亡霊にその夜悩まされる。夜明けとともに暴れ回った2人の亡霊は消える。
今回の上演は、オペラというよりは、音楽にバレエ(演出&バレエ振付:サッシャ・ヴァルツ)とアート(塩田千春&ピア・マイヤー=シュリーヴァー)が合体した上演で(これ以外の演出による上演もある)、難解な現代オペラではない。
(※「2人の姉妹は亡き男への愛を次第に募らせていく」撮影:寺司正彦 提供:新国立劇場)⇒
私の印象では、むしろバレエとアートのほうが勝っている。いずれにしても人間の根源的な情念の凄まじさを余すところなく描いている素晴らしい上演だと思う。
冒頭の水音はタルコフスキーの映画を思わせ、行平というかつての恋人への思いは、海辺の松を行平だと幽霊に錯覚させて、狂乱の舞を演じさせる。これは、「ルチア」の狂乱の場を想起させる。
そして、終盤にその狂気を覚まさせるように松のとがった葉が、怒りのように天から降ってくる。すると夜が明け、幽霊は去る。僧侶は夢だったのを知る。松風と村雨の姉妹は実は一人の女の陰と陽なのだろう。
またこのオペラでは、水音、風音が極めて重要な役割を果たしている。人間と自然。そして、生と死、夢と現実。そういうことに思いを至らせる。
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夜が明けて2人の姉妹を始め亡霊たちは
天から降ってくる松の葉を浴びて消え失せる
(撮影:MASAHIKO TERASHI 提供:新国立劇場)
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80分間、息を飲むようなシーンと音楽が続く。驚いたのは、1800席のオペラパレスが3日間ともほぼ満席だったこと。
昨年の読響のメシアン「アッシジの聖フランチェスカ」のコンサート形式上演でも2日間が満員だったのに驚いたが(私は観られずに涙を飲んだ)、こういう知的な刺激を求めているクラシック・ファンがかなりの数いることを忘れないでほしい。
細川オペラのさらなる上演を期待したいが、とりあえずは「松風」の一刻も早い再演を希望する。
幸いなことにNHKEテレのTV収録があり3月18日日曜日21時30分から「クラシック音楽館」でTV放映された。実演では分からなかった細部が良く分かり、この作品の素晴らしさを再び体験できた。
(2018.3.29「岸波通信」配信 by
葉羽&三浦彰)
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