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私が編集委員をしているファッション週刊紙WWDジャパン11月6日号は通算2000号だった。

 この19年間に起こったファッション&アパレル業界の事件をまとめているから興味のある方は是非読んでいただきたい。

    

 WWDジャパンの創刊は1979年4月16日号で、最初の5年間は隔週刊で、創刊5周年の1984年に週刊に切り替わった。

 もう創刊スタッフは残っていないばかりか、創刊後3年目の1982年12月に弊紙に携わるようになった私がとびぬけた古参になってしまった。実に在籍35年になる。

 日本のファッション&アパレル業界が黎明期から発展期に入ろうというまさにその時の創刊であり、入社であった。

 当時を振り返ると、第2次オイル・ショックの真っ只中で、日本全体では不景気風が吹き荒れたが、ファッションでは円高が止まらずに海外のブランドが雪崩のように入り始めた時期だった。

コム・デ・ギャルソン

 それに加えて「コム デ ギャルソン」と「ワイズ」(当初は「ヨウジ ヤマモト」ではない)が1980年代にパリコレに参加して衝撃的デビューを飾って、日本のデザイナーたちが我も我もと言い出していわゆるDCブームが巻き起こった。

 DCブームは90年に終わるが、主だった企業で生き残ったのはコム デ ギャルソン社、一度倒産したがヨウジ ヤマモト社、ビギ・グループ、ファイブフォックス社ということになるから、30年間でその生存率は3%程度であろう。

 ファッション企業の生存率は30年間で3%。もしかしたら、35年間この業界に棲息してきた私が得た最大の真実はそれかもしれない。

「WWDジャパン」2000号

 WWDジャパン通算2000号11月16日P.8、P.9にも書いたが、ファッション&アパレルの「流通」は、国際政治(為替)、法改正、技術革新(インターネットとスマートフォン)などの要素で変化する。

 例えば東西冷戦が終結(1991年)した後のグローバリズムの隆盛にのったSPA(アパレル製造小売り業)の急拡大がそうである。SPAの急拡大は「価格競争」を必然化して世界的なデフレ経済の誘因になっている。

 一方、ファッション&アパレル「商品」は、時代のムード(例えばストリートやライフスタイル)や天才デザイナー(例えばシャネルやスリマン)の影響を抜きにしては考えられないが、天才デザイナーの影響力については80年代にピークを迎えた。

 エディ・スリマン

 もう、80年代を賑やかにしたデザイナーのクロード・モンタナもティエリー・ミュグレーも知らないWWDジャパン記者がたくさんいる。そろそろラクロワも記憶の彼方に飛ばされそうだ。

 90年代以降ではサンプリング&リミックスが主流の時代になってくる。その圧倒的な成功例が、ラグジュアリー・ブランドのスター・デザイナーシステムである。

 「シャネル」&カール・ラガーフェルド、「グッチ」&トム・フォード、「ルイ・ヴィトン」&マーク・ジェイコブスがその代表例だが、アーカイブをベースにしたサンプリング&リミックスが、90年代以降世界的なラグジュアリー・ブランドブームを巻き起こしたのである。

「WWDジャパン」の表紙パネル展(WIRED TOKYO 1999)

 この30年間でファッション&アパレル市場の勝者は、SPAブランドとラグジュアリー・ブランドだと断言することができるかもしれない。この整理の仕方はたぶん当たっているだろう。

 しかし、この30年間でいろいろなものが消えて行っているが、それを知っているのは、30年以上この業界を見てきた者だけである。

 こんなこと自慢にもならないが、例えば、80年代で、SPAブランドとしてヨーロッパで君臨していたのは「タチ」というブランドだった。

 TATI/プランタン

 倒産して影も形もなくなったが、オペラ座近くに店を構えて、なんと山本耀司がデザインしたこともあった。当時パリに行っていた業界人はみんな店に入ったはずである。

 最近だと日本における「フォーエバー21」の閉店スピードが速く、今後が心配だ。ギャップ社の「オールドネイビー」日本撤退の例があり、とにかく海外企業は決断が早い。

    

 また大きく語られなくなったが、80年代後半のエイズ禍でなんと多くのデザイナーが命を落としたことか。この30年間で、最大の災禍ではなかったのか。

 ペリー・エリスの早逝は悔やんでも悔やみきれないが、パトリック・ケリーやウィリー・スミスといったブラックパワーを代表するデザイナーの死が惜しまれる。

 ファレル、カニエといったマルチアーティストが最近大活躍しているが、この2人が生きていればかなり状況は変わっていたはずだ。

 パトリック・ケリー

 「ストップ・ザ・ファッション・システム」をいつも叫んだフランコ・モスキーノも直接の死因は癌だが、エイズを患っていたと聞く。モスキーノが生きていたら業界はもうちょっと面白くなっていたかもしれない。

 日本でも熊谷登喜夫という素晴らしいデザイナーがいた。彼がエイズで死んだ後、ブランドホルダーのイトキンは「トキオクマガイ」というブランドを存続するために2人のデザイナーを起用したが、続かなかった。

 35年も業界を見ていると、こんな具合に悪いことばかり思い出す。

 大学で「ファッションと経済」を教えているが、儲かる品ぞろえを決定する計数管理みたいなものと、ブランディングとマーケッティングの入門講座である。

 上記のようなファッション史というかファッション裏面史は一番面白いのに全くニーズがない。残念である。

 口角泡を飛ばして話しているのは、ファッション・ロートルが集まる居酒屋だけである。

 それも固有名詞を思い出せなくて、「あれだよ、あれ」「ああ、あれね」などという訳のわからん会話になるのだけれども。

                

(2018.2.27「岸波通信」配信 by 葉羽&三浦彰)

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