人には、それぞれ自らの青春を彩るミュージシャンがいるものだ。
70年代に青春時代を送った我々の世代なら、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、サイモン&ガーファンクル、キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリンあたりということになるのだろう。
何故かグループばかりだ。要するに70年代はグループ・サウンズの時代だったということになるのかもしれない。
しかし、ザ・ビートルズは、1970年に解散してしまって、我々もその影響下にはあったものの、彼らが我が青春の音楽だと言うのは正しくはない。
他のグループも、再結成例はあるが、基本的には解散してしまったグループである。我々は青春の音楽すら喪失してしまった世代なのだろうか。
いや、そんなことはない。今でも歌い続けている巨人が一人いた。ボブ・ディランである。大ゲサに言えば、彼こそ我々の青春の生きた証人なのかもしれない。
そのディランが4月に日本でコンサート・ツアーを行なった。5月24日には73歳になるという。いつ歌えなくなっても不思議ではない年齢だ。聴きに行くなら今ではないかと重い腰を上げて、Zeppダイバーシティーに聴きに行った(4月7日)。
全く期待を裏切らなかった。ボブ・ディランは、いまだにボブ・ディランであった。何よりも音楽に衒いがなくて大きい。他のミュージシャンが小さく思えてくる。何よりもシンプルで深い。他のミュージシャンはなんて面倒臭いことをしているんだろうと思えてくるのだった。
70年代前半の大学生の部屋に行くと、そのレコード棚にあったLP(CDはまだなかった)と言えば、まずボブ・ディランのベスト盤(CBSソニーのグレイテスト・ヒッツというやつ)ではなかったか。
4畳半の薄汚い下宿でこのベスト盤を聴きながら頭痛が確実な安ウイスキーを煽るという青春の日々を思い出さずにはいられなかった。その時かかるLPは和製フォークやビートルズではなく、苦くショッパイ、ディランの歌でなければならなかった。
マリファナ、LSD、ウイスキー、ヘビースモーク、反骨、反体制、しかし生き長らえる生命力。今回のライブも頭を下げることのない、傲岸不遜のステージマナー、上手いんだか下手なんだかわからない、詩を重視した歌いぶり。
ノーベル文学賞の候補にもディランの詩はなったことがあるというが、たしかにいつも候補になる日本人作家よりもふさわしいかもしれない。
「ミュージシャンという枠を超えてしまった真のアーティスト」、そういう最大級の賛辞を送りたいのだが、「俺は一介の芸人に過ぎないんだよ」というディランのドスのきいた独り言が聞こえてくる。
アンコールは2曲。2曲目はロック調にアレンジされた「風に吹かれて」だったが、私にはたしかそう聴こえた。
(2014.8.8「岸波通信」配信 by 葉羽&三浦彰)
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