岸波通信その96「心の絆」

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岸波通信その96
「心の絆」

1 失われゆく命

2 ドライな関係

3 エルトゥールル号

4 テヘラン発最終フライト

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  The Bond of Heats 【2018.3.24改稿】(当初配信:2004.1.31)

泣き叫ぶ子供たちを前にして母親は慰めるすべも持たず、日本人たちは絶望に包まれた…その時である。西の空から、通告もなしに空港へ向かってくる二機の白い翼があった。
  
・・・本文より

 僕たちの大学時代の仲間たちは、毎年のように盆、正月プラスアルファくらいの頻度で集まって数十年になる…毎度、海を越えてくるヤツまでいる。

 そりゃあ、互いに忙しい時もあるから、何でこんな時期になんて思わなかったといえば嘘になる。しかし、そうして、付き合いを続けてきて本当によかったと思う。

「夏の日」

(長冨智佳子)

←“絆”写真コンテストグランプリ作品。

 笑った時もあれば、喧嘩した時もある。

 人生の一大事に、一緒に泣いてくれた友もある。多分、“心の絆”というものは、こんなふうに時間をかけて出来上がっていくものなんだな…。

 ところで… そういう個人と個人の友情や信頼関係というものが、国と国との間柄でも成立するものかと、ふと考えた。

 例えば、米国の“大義無き戦争”に賛同を示した国々。

 国の一つ一つを見れば、それぞれ多少の事情は違えども、経済的あるいは軍事的理由で“戦争反対”を唱えることができなかった国々だ。決して、友情や信頼という“心の絆”で結ばれているワケではない。

 しょせん国と国との関係というものは、“国益”によって結ばれるドライな関係、利害を巡る“合従連衡”のパワーゲームに過ぎないのか…。

 しかし!

 そんな当たり前の常識が覆される時、人間は思わず感動してしまうものだ。

 ということで、今回の通信は、百年の時を越え、二つの国の間で失われなかった“心の絆”の話をご紹介したい。

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1 失われゆく命

 国際政策の仕事をしていることもあって、僕のところには、海外事情に関する情報が毎日のように入ってくる。

 最近、目にとまったものの一つが、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が発行している『難民』という冊子にあったシエラレオネの記事だ。

daddy(現JICA理事長緒方貞子氏が高等弁務官を務めていた機関です。)

 生まれた子供の三人に一人が五歳までに命を落とすという世界最悪の乳児死亡率。平均寿命は何と40歳だ。

 2002年一月に内戦が終結し、ようやく復興への道を歩め始めたがまだまだ前途は多難である。

 このシエラレオネ内戦の悲劇を象徴するのが、反政府勢力によって無差別に行われた「手足切断作戦」だ。

 殺さずに置くことで敵方に負担を強いるというこの作戦によって、兵士ばかりでなく数千人の子供たちまでが手足を切断された。

 首都フリータウンの収容キャンプには、今も120人の被害者とその家族たちが暮らしている。

シエラレオネのサッカー

シエラレオネのサッカー

(王の帰還)

←フリータウンのキャンプで、
手足を失ったプレーヤーが
大好きなサッカーに興じる。。

 ある8歳の少女は、右腕を切断されながら、仲間のために不自由な左腕だけで重い容器を頭に載せて水を運んでいる。

 また、左腕を切断され縫合部の痛みに苦しむ17歳の少女は、お金がないために手術を受けられず、病院に行っても痛み止めを渡されるだけ。家族が引きとれないために一人でキャンプに暮らしている。

 さらに、一万人以上と言われる「子供兵」が存在する。

 彼らの多くは10歳にも満たないうちに反政府勢力に誘拐され、麻薬を与えられたり性的虐待を受けながら、殺人や略奪の技術を教え込まれた子供たちだ。

 その暮らす環境も劣悪。トイレも洗濯場も炊事場もみんな同じ川…不衛生な環境で病気になっても、満足な治療の設備はない。

 昨今、世界の耳目はアフガニスタンやイラクに向けられているが、今も戦乱が続く多くの国では、“心の絆”も結べないうちに助かるはずの小さな命が次々に失われているのだろう。

写真集「シエラレオネ」

写真集「シエラレオネ」

~5歳まで生きられない子どもたち~

(山本敏晴/著・写真)


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2 ドライな関係

 そんなシエラレオネにも人道支援のために駐在している人々がいる。

 世界食糧計画(WFP)からの食糧を配給する国連職員、医療支援のための国際赤十字、山奥の農村で井戸を掘るNGOの人々…人道支援にいそしむ人々だ。

 名誉や栄光のためではない。ましてや国益のためでもない。民間NGOの人々について言えば、何もせずにはいられない“忍びざるの心”で駆けつけて行ったのだ。

 治安や衛生状態の劣悪な国で、わが身の危険も省みず人道支援活動を行っている人々…本当に頭の下がる思いだ。

 人間の尊厳と人道の絆を何よりも大切にする彼らの行動に、心から感謝を贈りたい。

忍びざるの心

 僕は、人道というものについて考える時、いつも思い出す言葉がある。

 かつて、会津地方振興局が主催した地域振興フォーラムで、作家の童門冬二氏が語った“忍びざるの心”という話だ。

 例えば、自分の目の前で溺れている子供がいたとすると、後先考えずに助けに行ってしまう・・・そういう気持ちは誰にでもあるはずだと・・・。

 もしかすると、自分も溺れるかもしれない。命さえ失うかも知れない・・・そんな事は考えない。

 ただ“見捨てておくには忍びない”・・・理屈や損得など考えないで動いてしまうのが“忍びざるの心”だと童門氏は言った。

 「人道」というものは、本来、そういうものなのだろう。

 しかし・・・

 昨今、国家が行う国際協力政策は、どんどん“国益”に引きずられているように思えてならない。

 現に、イラクのように石油資源を持つわけでもないシエラレオネにおいて、人道支援の主役になっているのは、世界各国ではなく、国際機関か民間NGOなのだ。

 そこに「利権」がなければ、国家というものは容易に動かないものらしい・・・。

 国と国との関係、それは“ドライな関係”なのだ。

 ひるがえって我が国を見ると、国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊は、これまで世界80カ国に2万5千人を越える隊員を派遣して来た。

 この協力隊の活動は、とかく利権と絡みがちな金銭的ODAとは違い、支援の対象も医療や保健衛生、農業技術など相手国が真に必要としている「教育」がターゲットだ。

 決して“見返り”を期待するような援助ではなく、一国の政府関係機関が行う国際協力活動としては、極めて人道的見地に徹したもので、誇ってよいと思う。

 だが、こうした協力隊の活動さえも、今後は“国益”を考慮しながら進める方向に転換されるのだそうだ。

パラオのバースデー

(青年海外協力隊の活動現場)

←福島県のホームページ 「地球探検」から。

 確かに、国が行う国際協力活動は国民の税金を用いる。

「よその国を助ける余力があるのなら、もっと自国の困っている国民のために用いるべきだ」という主張にも一理ある。

 国家レベルで考えた時に、人道という情に流され、“見捨てておくには忍びない”という思いで対外援助をしてしまう為政者は、やはり失格なのだろう・・・それが現代社会の常識というものである。

 だからこそ・・・、1985年のあの暑い日、自らの危険もかえりみず、

 西の空から「それ」が飛来するとは誰も考えなかったのだ。

 そしてこの話は、百年前にさかのぼる・・・。

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3 エルトゥールル号

 今から100年以上も前の1890年9月16日、紀伊半島に大型台風が迫る中、沖で一隻の船が難破した。

 その船はオスマントルコの使節団など6百余人が乗り込むエルトゥールル号。

 皇帝ハミル2世に派遣され、明治天皇に会見して横浜から帰国の途上、紀伊沖で台風と遭遇したのだ。

 これを発見したのは、和歌山県串本町大島(昔の樫野村)の燈台守・・・彼は、急いで樫野の村人に助けを求めて走った。

 当時、樫野には50軒ほどの家があり、かけつけてくれた村人と共に、嵐の海で助けを求めるトルコ人達を夜を徹して助け上げたのである。

 しかし、600人の遭難者に対しては多勢に無勢。

 救い出されたのはたったの69人・・・多くの尊い人命が嵐に呑み込まれた。

「エルトゥールル号の遭難」

実話に基づく童話絵本
「エルトゥールル号の遭難」

:のぷひろ としもり
絵:ぱば のりこ

 村人の介護は献身を極めた。

 当時、飢饉と不漁続きで、貧しい村では、自分たちの命を繋ぐ食料さえ底を付いていた。

 しかし、ショックと大怪我で体力を失ったトルコ人たちを救うためには、彼らの最後の備蓄、家禽の鶏をしめるしかなかった。

「これを食べてしまったら・・・」

「お天等さまが守ってくれるよ。」・・・村の女の一人が言った。

 もう、誰もがためらわなかった。

 義を見てせざるは勇無きなり・・・忍びざるの心である。

 かくして、69人は一命を取りとめ、犠牲となった遺体も村人によって丁重に弔われた。

 その話は、やがて和歌山県知事から明治天皇に伝えられるところとなり、天皇は「比叡」と「金剛」の二隻の軍船を出して、生存者たちを祖国に送り届けた。

エルトゥールル号遭難碑

エルトゥールル号遭難碑

(和歌山県串本町)

 さらに後年。

 民間人と新聞社の協力で、エルトゥールル号遭難者に対する義捐金が日本中から集められた。

 それをトルコに届ける役目を任された代表山田寅次郎氏は、1892年にイスタンブールに上陸。

 外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、トルコ皇帝ハミル2世に謁見すると、彼は、皇帝の要請で、そのままトルコに留まって日本語教室を開くことになった。

 その教室は、日本とトルコの友好親善の架け橋となり、多くの教え子を輩出したが、その教え子の一人にケマルという少年もいた・・・後のトルコ共和国初代大統領、ケマル・アタテュルクである。

 そして時が流れ、日本では、エルトゥールル号事件の記憶は時に埋もれていった・・・。

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4 テヘラン発最終フライト

 時は下って1979年。

 イスラム原理主義を標榜するシーア派のホメイニ師がイランでイスラム革命を起こし、イラン・イスラム共和国が成立。

 イスラム原理主義(シーア派)による「革命の輸出」を唱えたホメイニ師に対し、イラク国内でのシーア派の動向を懸念するフセインのバース党(スンニー派)は、イランの大量粛清の混乱に乗じて、1980年9月にイラン空爆を開始した。

 8年にわたるイラン・イラク戦争の勃発である。

 当初、優位に立ったイラク軍は次第に押し返され、1982年以降は逆にイランがイラク領内に侵攻を開始。

 これを見て、イスラム原理主義の拡散を恐れた米国は、イラクの後ろ盾となって武器供与を行い、1985年3月にイラクは大規模反攻を企てた。

 そして「運命の日」がやってくる。

イラン・イラク戦争開戦地

イラン・イラク戦争開戦地

 3月17日、サダム・フセインは新型ミサイル“アル・フセイン”で、イラン領内の無差別大量爆撃を行う決断をし、世界に向かって通告した。

「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ全ての飛行機を撃ち落とす。」

 イランに居住していた外国人たちはパニックに陥り、国外退去を急いで空港に押し寄せた。

 イラン在住の日本人も慌てて空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることが叶わない。

 この時世界各国は、それぞれの自国民を救うため、直ちに首都テヘランに向けて救援機を差し向けた。

 だが、日本政府はすばやい決定ができず、日本人215人は空港に取り残されたのである。・・・もう、日本からの救援は来ない。

 通告の期限が迫る中、もはや空港の日本人たちには、どうすることもできなかった。

 間もなく、米国の支援を受けたサダム・フセインによって、テヘランを初めとするイランの中枢都市への無差別大量爆撃が開始される。

 泣き叫ぶ子供たちを前にして母親は慰めるすべも持たず、日本人たちは絶望に包まれた。

 ・・・その時である。

 西の空から、通告もなしに空港へ向かってくる二機の白い翼があった。

 機体には「トルコ航空」の文字。

 空港に降り立った飛行機は、日本人215人を全員収容すると、成田空港に向かって飛び立った。タイムリミットの1時間15分前の出来事であった。

 この時、何故、トルコ航空機が来てくれたのか、救出された日本人たちは誰一人知る者はいなかった。

 いや、日本政府もマスコミさえも知らなかったのである。

 救出劇の後、駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語った。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人達や日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学生のころ、歴史教科書で学びました。

 トルコでは、子供達でさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」

救出された215人の邦人

救出された215人の邦人

(トルコ航空)

←妊婦や赤ちゃんもいた。

 百年の時を超えて、恩義に報いたトルコという国。

 いい話じゃないか…。

 百年前の樫野の村人たちの“忍びざるの心”は、こうして日本人215名のかけがえのない命を救ったのだ。

 

/// end of the“その96 「心の絆」” ///

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《追伸》

 「テヘラン発最終フライト」の話は、今となっては有名な物語ですね。

 僕はこの話を昨年秋に知り、「通信」でも取り上げようと思っていましたが、忙しさにかまけて先送りになっていました。

 そうこうするうち・・・何と、今年1月27日のNHK「プロジェクトX~挑戦者たち」で先に取り上げられてオン・エアされたのです!

 テレビは見ていませんが、取材力のあるNHKのこと、多分、多くのディテールを含めて紹介されたのでしょう。

 このエルトゥールル号の事件は、和歌山県串本町が地域起こしのために書籍にまとめ、出版しています。

 また、テヘランの日本人が救出された3月20日の朝日新聞朝刊には「テへラン在留邦人希望者ほぼ全員出国/トルコ航空で215人」という記事が掲載されました。

 しかし、問題はその記事の内容。

 朝日新聞は、何故、トルコ航空が危険を冒してまで日本人の救出に向かったかという理由について、「日本がここのところ対トルコ経済援助を強化していることが影響したものだろう」という当て推量しか書かなかったのです。

 まるでトルコが“金目当て”に救出を行ったかのような侮辱・・・この記者は、トルコという国に草の根から培われてきた親日感情やエトゥールル事件のことを全く取材していなかったのです。

 トルコのウトカン駐日大使は、1997年1月の産経新聞に、次のようなコラムを寄せています。

エルトゥールル号事件について

 勤勉な国民、原爆被爆国。

 若い頃、私はこんなイメージを日本に対して持っていた。

 中でも一番先に思い浮かべるのは軍艦エルトゥールル号だ。1887年に皇族がオスマン帝国(現トルコ)を訪問したのを受け1890年6月、エルトゥールル号は初のトルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。

 三ヵ月後、両国の友好を深めたあと、エルトゥールル号は日本を離れたが、台風に遭い和歌山県の串本沖で沈没してしまった。

悲劇ではあったが、この事故は日本との民間レべルの友好関係の始まりでもあった。

 この時、乗組員中600人近くが死亡した。しかし、約70人は地元民に救助された。手厚い看護を受け、その後、日本の船で無事トルコに帰国している。

 当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ、遭難現場付近の岬と地中海に面するトルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。

  エルトゥールル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され、私も幼いころに学校で学んだ。子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。

〔駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏寄稿〕

 中国の春秋戦国時代、管仲と鮑叔の損得をこえた友情の物語のように、これからの日本、“国益”だけでなく信頼と友情を一緒に育める国とのお付き合いを大切にして行きたいものです。

 

 では、また次の通信で・・・See you again !

エルトゥールル号殉難者弔魂碑

エルトゥールル号殉難者弔魂碑

(和歌山県串本町)

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To be continued⇒“97”coming soon!

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