さて、会津戊辰戦争の悲劇といえば、飯盛山で力尽き、武士道に殉じて切腹した19人の少年白虎隊ばかりがクローズアップされがちですが、実際は、あらゆるところで戦争の犠牲者が出ていました。
新政府軍が若松城下まで侵入すると、家老西郷頼母の一族を始め城下の婦人や老人・子供たちの多くが足手まといとなるのを恐れて自害したのです。
自らの存在が主人の忠義の妨げとなるのを「恥ずべきこと」とする…武士の家族もまた「武士道精神」を培っていたのです。
明治元年(1868年、維新政府軍に攻められた会津軍と新撰組残党は、最後の砦、鶴ヶ城に5千人で立て篭もりましたが、政府軍が小田山から放つ砲撃に犠牲者が増え続け、篭城一ヶ月で遂に落城しましす。
そして、降伏の調印が行われると、戦後処理の焦点は、会津藩主松平容保公の“戦争責任”問題となりました。
この時、藩主父子や全藩士の助命嘆願に奔走したのが、家老の萱野(かやの)権兵衛です。
萱野権兵衛は、他の家老たちが自刃あるいは行方不明となる中で、単身、戦後処理の激務をこなし、最後には「戦争の責任は全て自分一身にある」として、明治2年(1869年)にひとり江戸城に登城、藩主・藩士たちを救うことを条件に全責任を被って切腹したのです。
…何という“忠節”の人。
結果、会津松平家は断絶を許され、藩士たちは不毛の地、青森県下北半島の斗南(となみ)に配流されることで、かろうじて死罪を免れたのです。