【世紀のヒーロー! 力道山に関する年表】
1924年11月4日、北朝鮮咸鏡南道で生まれる。(旧名、金信洛)
力道山は、あの北朝鮮の人だったのです。知っていましたか? もっとも、その地域にはまだ北朝鮮という国は有りませんでしたけれど・・・。
1939年、二所ノ関部屋入門。1946年入幕、三年後関脇昇進。翌1950年、自宅で自ら髷(まげ)を包丁で切り落とし、相撲を廃業。
1952年プロレス転進のため渡米し、約一年間の修行。翌1953年に帰国。その7月、日本プロレス協会設立。28歳。
渡米していた約一年間の対戦成績は300戦295勝5敗。勝率も凄いですけど、一年間300戦というガッツが、また凄いと想いませんか?
1954年2月、蔵前国技館3日間連続興行で、木村政彦とタッグを組んでシャープ兄弟(NWA世界タッグ・チャンピオン)と対戦。日本テレビ、NHKが二元中継を行う。
1954年は僕の生まれた年。この世紀の対戦の模様は、関東一円の街頭テレビ(約220台)でも放映され、全国的なプロレス・ブームに火が付いたのです。
1954年12月、「巌流島の決闘」と銘打ち、かつての盟友木村政彦(柔道七段)と日本選手権試合で対戦、これを撃破。(蔵前国技館)
1957年10月、鉄人ルー・テーズ初来日、NWA認定インターナショナル世界ヘビー級選手権試合を戦うが結果は時間切れ引き分け。翌年、渡米して対戦したインターナショナル世界ヘビー級選手権試合で、遂に鉄人ルー・テーズを倒す。
アメリカでは、リッキー・ドザンと呼ばれました。
1962年3月、“吸血鬼”フレッド・ブラッシーの持つ新AWA認定世界ヘビー級選手権試合に挑戦し、勝利。
このリターンマッチとして4月に実施された千駄ヶ谷体育館での試合では、信じられないことが起きました。テレビ中継された流血の試合を見ていて、何と、6人の老人がショック死してしまったのです。
今、思い出せば、当時50歳過ぎだった我が家のロクばあちゃんも、ブラッシーの反則噛み付き攻撃にレフェリーが気が付かないことに腹を立て、こぶしを振り上げて、血管切れそうになって怒っていました。危なかったなぁ! (←そのロクばあちゃん、今年2月に95歳で天寿をまっとう。よかったね。)
なお、その後の興行でも、老人のショック死が相次いだことから、TVプロレス中継の規制が検討されたそうです。
1963年12月、東京のホテル・ニュージャパンのナイトクラブで暴力団にナイフで腹を刺され死亡。39歳。
力道山が日本プロレス協会を設立して、ちょうど10年目。時代を急ぎ足で駆け抜けた人物でした。(合掌)
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